このコメディは10数人がかりでつくったものらしい。
たしかに、ループする世界のディテールとか、
いろんな要素のちりばめとかがよくできていて、
プロットが細かくつくられているのが、
一人じゃできない完成度になっているのがよくわかる。
ネタ出しがしっかりしているというかね。
でも、それだけに、限界があると思う。
AIでモノ作りすることに、少し似ているんだよな。
ネタバレなしで。
AIがつくるモノ作りには限界がある。
所詮は平均的な範囲から逸脱しないからだ。
そのことによって、
不足のない、丸いものはつくれる。
間違っていない、刺されないものである。
つまり、よくないものになるくらいなら、
AIでつくった平均的なもののほうが無難である、
ということだ。
複数でつくった脚本も、
そういう匂いがある。
色んな人のアイデア出しがあるから、
目端が利いていて、
偏らない、バラエティ豊かなものになっているのはよくわかる。
AIの平均的な丸に比べて、
極限まで大きな丸を描いている感じがある。
だけど、それまでだ。
平均的であるということは、
平凡であるということだ。
つまり、
ディテール自体は新しく、面白いのかもしれないが、
全体的に見ると、
「よくあるところから一歩も抜け出していない、
ふつうの作品」になるということだ。
つまり、この映画の、
「ディテールやコメディとしては面白いが、
映画として満足が行くものになっていない」
という、「コンテンツ感」はどこからくるのだろうと考えると、
そこに帰着するのではないかと思う。
つまり、
バラエティ台本としては複数でいろんな目端が効いてて、
各方面に効果的だけど、
芯がない、という感じだ。
以下、ネタバレを含むので改行。
この話にはテーマがない。
ここのブログでよく議論する通り、
テーマというのは作者の言いたいことや、
説教したいことではない。
「その作品を通した一気通貫する何かで、
それが結論になるように組み立てられたもの」
というようなことだ。
それはこの作品には二つある。
「社長の後悔とやり直し」、
「一人で戦わないで、みんなで戦うこと」
だろう。
僕の批判点は、社長のドラマのほうがドラマチックになっていて、
主人公の二つ目が印象に残らず、浅い、
ということであった。
なぜ社長のほうがドラマチックに見えて、
メインに見えるか?ということだ。
それは、
「タイムリープが後悔とやり直したい心に関係するから」だと思う。
この物語のメインギミックがタイムリープで、
それはやり直したい心と関係して、
それは社長のほうが強くて、
社長の無念を晴らすことのほうと、
相性がいいんだよね。
主人公の「一人で調子よく上級代理店にいこうとすることよりも、
みんなで戦うことのほうが大事」
というテーマは、
タイムループと関係ないんだよね。
ここが、タイムループと絡んでいたら、
モチーフとテーマの関係性がより強くなり、
明確に彼女が主人公になれたのに。
たとえば、
「何度やってもみんなを裏切ってしまう」とか、
「何度やっても向こうに迎え入れられない」とか、
タイムループを生かして、
向こうとの関係性を切って、
こちらのほうがいいのだ、
という風になる展開が、
もっとあるとよかったはずなのだ。
向こうの代理店にいくのは一回だけだったね。
何度も何度も、
あの憧れの女性に会い、
失望してしまうことを繰り返すようにしたほうが、
良かったんじゃないか。
そして、こちらのみんなと力を合わせたほうが有利である、
そうしたほうが楽しい、
ということに気づかせるべきだったんじゃないか。
たとえばだけど、
何回かのループ目で、
彼女から課題を出されて、
こんなしょうもないことをやっているだけなんだ、
これってうちでやってることのほうがレベルが高いわ、
と思えることまでたどり着くべきだったんじゃないかしらね。
タイムループを生かして、
何度でも向こうに行き、
何度でも向こうのアラを出すことで、
「あの憧れはなんだったんだろう」
というところにたどり着かせてもよかったと思う。
「何回ループしても楽しいのはどっちだ」
「何回ループしてもまた組みたいのはどっちだ」
というところまでたどり着ければ、
タイムループの意味があったと思う。
それよりも、社長の漫画のやり直しのほうが、
強くなってしまったので、
テーマが主人公から外れてしまったのが、
この映画が映画として弱いところだ。
もちろん、バラエティとしては面白いし、
ギミックもいいし、
劇団的なキャラクターも面白いし、
社長の漫画はちょっと泣けるし、
電話に出た対応もいいけれど、
「で、それが全体としてなんなん?」
に答えるものがないんだよね。
だから、エンドロール後の余計なワンカットを入れてしまったんだと思う。
複数人による脚本の限界はここだ。
つまり、
最初から最後まで、
深く主人公に入れないんだよ。
表面のディテールはつくれるよ。
バラエティもおもしろさもつくれるだろう。
だけど、
人生という深みに達するのは、
複数人じゃ無理なんだと思う。
それは、
一人が責任を引き受けるしかないと思う。
なぜ物語には作者がいるのか?
ということだ。
民間伝承に、オチがあり、人生を考えるものはないよね。
桃太郎や浦島太郎にはテーマがない。
作者が意図してつくった物語ではなく、
ただ面白い噂話が採録されただけだからだ。
作者のいる物語というのは、
「それが全体として一体人生の何を表しているのか」
が必要だと僕は思う。
いや、これはバラエティなんですよ、
ほら、タイムループ脱出ゲームおもしろかったでしょ、
というならそれは構わん。
それはゲームでやっとけばいいと思う。
偉大なる物語というのは、
バラエティやゲームの形で、ガワとしては楽しませつつ、
結局、「人生とはこういうものだし、
彼女はこうやって人生の真理を一つ掴んだ」
とならないと、
映画的な物語とはいいがたいと思う。
この芯のなさこそが、
これが映画としてはなー、という感想になっているのだと考えられる。
複数人でやると、
おそらく「人生とは」がぶれて、
一つに収束しないだろう。
僕は高校時代にリレー小説を遊びでやったことがあるんだけど、
まあバラバラの展開にしかならないんだよね。
こっちが用意した伏線は無視されるし、
向こうの伏線やアイデアはこっちで無視するしで、
よく完結したなあ、と思ったものだ。
で、完結したとしても、
「そこまでの道程は楽しかったが、
終わってみればそれまで」にしかなっていない、
一種の虚しさすら感じたんだよね。
祭りのあとみたいなことだ。
映画は、祭り以上の何かだと僕は考えている。
あとに人生の何かを残す、
物語的な価値があるから意味があると僕は考える。
それは、複数の人だと、
価値観がバラバラでうまく統一できないのだと思う。
楽しいことは、パーティーの出し物として機能するが、
まじめなひとつの背骨は、
一人の人の人生観で貫かなければ、
きっちりした感じにならないのだと思う。
AIがつくるモノも、
こうした「それがなにか」が欠けている、
芯のない風船に見えるんだよね。
それらを意識してか、
監督が最終的に脚本を書き直しているのだとは思う。
だが、それが最後まで通る、太くて美しい一本の線になっていたとは、
言い難い。
小劇場系の、スマッシュヒットになる可能性があるおもしろさがありながら、
映画としてのテーマの薄さゆえに、
歴史には残れない映画だと感じた。
2025年11月14日
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