2025年11月14日

複数人で書く脚本の限界(「MONDAYS」評2)

このコメディは10数人がかりでつくったものらしい。
たしかに、ループする世界のディテールとか、
いろんな要素のちりばめとかがよくできていて、
プロットが細かくつくられているのが、
一人じゃできない完成度になっているのがよくわかる。
ネタ出しがしっかりしているというかね。

でも、それだけに、限界があると思う。
AIでモノ作りすることに、少し似ているんだよな。
ネタバレなしで。


AIがつくるモノ作りには限界がある。
所詮は平均的な範囲から逸脱しないからだ。
そのことによって、
不足のない、丸いものはつくれる。
間違っていない、刺されないものである。
つまり、よくないものになるくらいなら、
AIでつくった平均的なもののほうが無難である、
ということだ。

複数でつくった脚本も、
そういう匂いがある。
色んな人のアイデア出しがあるから、
目端が利いていて、
偏らない、バラエティ豊かなものになっているのはよくわかる。
AIの平均的な丸に比べて、
極限まで大きな丸を描いている感じがある。

だけど、それまでだ。
平均的であるということは、
平凡であるということだ。

つまり、
ディテール自体は新しく、面白いのかもしれないが、
全体的に見ると、
「よくあるところから一歩も抜け出していない、
ふつうの作品」になるということだ。

つまり、この映画の、
「ディテールやコメディとしては面白いが、
映画として満足が行くものになっていない」
という、「コンテンツ感」はどこからくるのだろうと考えると、
そこに帰着するのではないかと思う。
つまり、
バラエティ台本としては複数でいろんな目端が効いてて、
各方面に効果的だけど、
芯がない、という感じだ。


以下、ネタバレを含むので改行。





この話にはテーマがない。

ここのブログでよく議論する通り、
テーマというのは作者の言いたいことや、
説教したいことではない。
「その作品を通した一気通貫する何かで、
それが結論になるように組み立てられたもの」
というようなことだ。

それはこの作品には二つある。
「社長の後悔とやり直し」、
「一人で戦わないで、みんなで戦うこと」
だろう。
僕の批判点は、社長のドラマのほうがドラマチックになっていて、
主人公の二つ目が印象に残らず、浅い、
ということであった。

なぜ社長のほうがドラマチックに見えて、
メインに見えるか?ということだ。
それは、
「タイムリープが後悔とやり直したい心に関係するから」だと思う。

この物語のメインギミックがタイムリープで、
それはやり直したい心と関係して、
それは社長のほうが強くて、
社長の無念を晴らすことのほうと、
相性がいいんだよね。

主人公の「一人で調子よく上級代理店にいこうとすることよりも、
みんなで戦うことのほうが大事」
というテーマは、
タイムループと関係ないんだよね。

ここが、タイムループと絡んでいたら、
モチーフとテーマの関係性がより強くなり、
明確に彼女が主人公になれたのに。

たとえば、
「何度やってもみんなを裏切ってしまう」とか、
「何度やっても向こうに迎え入れられない」とか、
タイムループを生かして、
向こうとの関係性を切って、
こちらのほうがいいのだ、
という風になる展開が、
もっとあるとよかったはずなのだ。
向こうの代理店にいくのは一回だけだったね。
何度も何度も、
あの憧れの女性に会い、
失望してしまうことを繰り返すようにしたほうが、
良かったんじゃないか。
そして、こちらのみんなと力を合わせたほうが有利である、
そうしたほうが楽しい、
ということに気づかせるべきだったんじゃないか。
たとえばだけど、
何回かのループ目で、
彼女から課題を出されて、
こんなしょうもないことをやっているだけなんだ、
これってうちでやってることのほうがレベルが高いわ、
と思えることまでたどり着くべきだったんじゃないかしらね。
タイムループを生かして、
何度でも向こうに行き、
何度でも向こうのアラを出すことで、
「あの憧れはなんだったんだろう」
というところにたどり着かせてもよかったと思う。

「何回ループしても楽しいのはどっちだ」
「何回ループしてもまた組みたいのはどっちだ」
というところまでたどり着ければ、
タイムループの意味があったと思う。
それよりも、社長の漫画のやり直しのほうが、
強くなってしまったので、
テーマが主人公から外れてしまったのが、
この映画が映画として弱いところだ。

もちろん、バラエティとしては面白いし、
ギミックもいいし、
劇団的なキャラクターも面白いし、
社長の漫画はちょっと泣けるし、
電話に出た対応もいいけれど、
「で、それが全体としてなんなん?」
に答えるものがないんだよね。
だから、エンドロール後の余計なワンカットを入れてしまったんだと思う。


複数人による脚本の限界はここだ。
つまり、
最初から最後まで、
深く主人公に入れないんだよ。
表面のディテールはつくれるよ。
バラエティもおもしろさもつくれるだろう。
だけど、
人生という深みに達するのは、
複数人じゃ無理なんだと思う。
それは、
一人が責任を引き受けるしかないと思う。

なぜ物語には作者がいるのか?
ということだ。
民間伝承に、オチがあり、人生を考えるものはないよね。
桃太郎や浦島太郎にはテーマがない。
作者が意図してつくった物語ではなく、
ただ面白い噂話が採録されただけだからだ。

作者のいる物語というのは、
「それが全体として一体人生の何を表しているのか」
が必要だと僕は思う。
いや、これはバラエティなんですよ、
ほら、タイムループ脱出ゲームおもしろかったでしょ、
というならそれは構わん。
それはゲームでやっとけばいいと思う。
偉大なる物語というのは、
バラエティやゲームの形で、ガワとしては楽しませつつ、
結局、「人生とはこういうものだし、
彼女はこうやって人生の真理を一つ掴んだ」
とならないと、
映画的な物語とはいいがたいと思う。


この芯のなさこそが、
これが映画としてはなー、という感想になっているのだと考えられる。


複数人でやると、
おそらく「人生とは」がぶれて、
一つに収束しないだろう。
僕は高校時代にリレー小説を遊びでやったことがあるんだけど、
まあバラバラの展開にしかならないんだよね。
こっちが用意した伏線は無視されるし、
向こうの伏線やアイデアはこっちで無視するしで、
よく完結したなあ、と思ったものだ。
で、完結したとしても、
「そこまでの道程は楽しかったが、
終わってみればそれまで」にしかなっていない、
一種の虚しさすら感じたんだよね。
祭りのあとみたいなことだ。

映画は、祭り以上の何かだと僕は考えている。
あとに人生の何かを残す、
物語的な価値があるから意味があると僕は考える。

それは、複数の人だと、
価値観がバラバラでうまく統一できないのだと思う。
楽しいことは、パーティーの出し物として機能するが、
まじめなひとつの背骨は、
一人の人の人生観で貫かなければ、
きっちりした感じにならないのだと思う。

AIがつくるモノも、
こうした「それがなにか」が欠けている、
芯のない風船に見えるんだよね。



それらを意識してか、
監督が最終的に脚本を書き直しているのだとは思う。
だが、それが最後まで通る、太くて美しい一本の線になっていたとは、
言い難い。


小劇場系の、スマッシュヒットになる可能性があるおもしろさがありながら、
映画としてのテーマの薄さゆえに、
歴史には残れない映画だと感じた。
posted by おおおかとしひこ at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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