2025年11月19日

リアルとはなんぞや

触覚的体験が世界をリアルにとらえる、
という考え方はわからなくもないけど、
結論がパンフォーカスを使え、
でしかないのはあまりにもリアルを簡単に考えてないかね?

最近の映画がもはや「リアル」に感じられない理由とは?
https://gigazine.net/news/20251117-why-movies-just-dont-feel-real/?utm_source=x&utm_medium=sns&utm_campaign=x_post&utm_content=20251117-why-movies-just-dont-feel-real


そんなんがリアルというならば、
4K8Kでパンフォーカス(ピントが奥から手前に合っていること)
の絵があれば一番リアルになっちゃうじゃん。
それって博物館映像とか、
記録映像の話じゃん。

僕はまったくそうは思ってなくて、
画質が640×480だろうが、
浅いフォーカスの絵だろうが、
リアルはつくれると思っている。

また、
触覚可能性という点では合意するが、
それが単に「何かを触るカットがあればいい」
わけではないと思うね。


いい例をあげよう。
先日「シャイニング」を取り上げたのでそこから。

ステディカムのテスト映像でもあると思うけど、
女の子が三輪車をこいで、ホテルの廊下を一周する長回しのカットがある。

今でこそ普通にある移動ショットだけど、
「手ブレせずにカメラが動くものの後をスーッと動く」
のは当時初くらいの勢いで、衝撃をもって迎えられた。

で、ここからがうまいところで、
三輪車がホテルのカーペットの上を走ってる時は音がせず、
カーペットが途切れて木の床になったら、
ゴーッて車輪の音がするんだよ。
で、またカーペットの上に乗るとスーって無音になる。

これが、「三輪車が木でできた廊下と、
その上に分厚いカーペットを敷いたところを走っている」
感覚のリアリティをつくるんだ。

「そんなこと、言われなかったら気づかなかったこと」、
つまり、
「床の材料によって走行音は変わるだろ」を提示されて、
初めて人は「そういえばそうだな」と感じる。

つまり表現なのだ。
表現とは、そうだと無意識には知っていた事を、
あらためて取り出して、「それはそうだ」を見せるものである。
そしてそれは、初出であるほどよい。
「その感覚はここで初めて気づいた」があるといいのだ。

つまり、
ただカメラを回して、ただ芝居して、
ただマイクで録音しても、
リアルではない。
たしかに現実ではあるが現実とは感じられない。

廊下を進むカットで、床材によって音が変わることに、
「初めて気づく」があって、
我々はそこに「現実を発見する」のだ。

この、「発見」がないものは表現の資格がない。
ただの記録に過ぎない。

8Kだろうが16Kだろうが8ビットファミコンだろうが、
なんならラインの一行にすら、
我々はリアルを感じることができる。
画質やフォーカスなど関係ない。

好きな女の子の「すき」の二文字だけで、
我々は生の実感を感じることができる。


「ドラクエ5天空の花嫁」の例を。
スーファミなので16ビットだ。
しかし今から考えれば稚拙な画質だ。
だけど物語が超一流なので、そこにリアリティを感じる。
(これを台無しにした山崎版映画は、
末代まで祟られるとよい)

とくに好きな場面は、
「主人公が子供の頃に冒険した妖精島がある。
そこでは妖精と会話して、探検や戦闘や宝探しをした。
そして主人公が大人になり、
結婚して、子供を2人連れて、
今度は4人パーティーとなって冒険している頃、
再び妖精島へ訪れる必要がある。
だがそこはすでに廃墟化して、
妖精だらけでにぎやかだった島はもうそこになかったのだ。
だが、子供たちに異変が。
この廃墟の、誰もいない空間に向けて話しかけている。
ドラクエは先頭に立つ者がリーダーであり、
リーダーを交換することができる。
ここで大人の主人公ではなく、
子供をリーダーに立てると……
かつての妖精島がよみがえり、妖精たちと話せるようになる。
つまり妖精は子供にしか見えない。
大人になった主人公は、もう妖精が見えないし、
話せないのだ」
という感覚だ。

「大人には妖精が見えない」をやるためだけに、
ここまで丁寧な作りをしてある。
そしてそれを「自分はもう妖精が見えないのだ」
と体験することで理解できる。

こんなリアリティの感覚は、
この作品にしか存在しない。(ほかにあったらすいません)

もちろん妖精はリアリティではない。
だが、
大人なら誰しも「子供の見方を捨てなければならない」
ことを知っていて、それでたくさん傷ついてきたことだろう。
残酷だがそれがリアリティというものだ。
それを、
「表現」一発で切り抜けているから表現なのだ。

これをどんな32Kやパンフォーカスで撮ったとしても、
この感動(喪失感)は得られない。

16ビットの稚拙な絵だから成立している。
あのドットが、子供の稚拙な、しかし無限の世界の見方に、
同一視できる仕掛けだ。

これは堀井雄二の最高傑作だといまだに思っている。
これを何一つ表現してない映画版はクソだ。



つまり、「この感覚」という感覚なのだ。

それは視覚でも触覚でも、もちろん聴覚でもない。
「たしかに世界はこのようになっているという(再)発見」
こそが、
架空の作り物をリアルに感じさせることができるのだ。

妖精がドット絵だからリアルじゃないなんて、
表現を何一つわかってないやつのセリフだ。


SDがHDになってテレビ番組の制作コストがあがり、
結果テレビは凋落した。
ゲームも画質があがってモデリングやらなんやらの手間が増えて、
制作コストが莫大に増えた。
ファミコン時代、月に何本とか出ていたころがなつかしい。
年に1本どころか、何年に1本くらいになったよなー。

制作費に見合ってないんだよ、そのリアルは。



この記事を書いたのは技術者だろうか、
評論家だろうか。

いずれにせよ、「表現とは新しい発見をすること」
だということを知らない、ずぶの素人であることは間違いない。

4Kカメラをその辺にむけて、
ワイドレンズでパンフォーカスならリアルなんでしょ?
それで満足しとけ。
機材室でいくらでも撮れる。



表現とは、それ以上にリアルでなければならない。
それは、画質も音質もFPSも関係ない。
「発見の質」で決まる。

それをつくることを、表現するという。

映画はなぜリアルなのか?表現だからだ。


下世話な話をしようか。
女子がパンツを履いてるとき、
尻に下着の線が浮き出てる時あるじゃん。
その迂闊さ、リアルだよね。
それって8Kでもスマホでもいいよね。
その事実の方が興奮するんだから。
つまり発見だ。
「この人はこういう形の下着を履いてるが、
それを気づかれてないと思っている」
という発見が、我々にリアリティを届けるわけだ。
パンツの線がリアルなのではない。
迂闊さがリアルなのだ。

そしてそれはカメラに映らない。
映らないものを、画面に映るようなものに置き換えるのを、
表現というのである。
posted by おおおかとしひこ at 07:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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