この話続けます。
要はAIはシニフィアンを組み合わせているだけだ。
シニフィエを組み合わせてはいない。
シニフィアン……「言葉」という文字。
シニフィエ……「言葉」が指す意味の内容。
我々は「言葉」というシニフィアン(インデックス)で、
「音声や文字のまとまりで、
それを使って会話したり思考したりするもの。
人間では通常数万ある」というシニフィエ(意味)をさす。
ある文章が、
シニフィアン的に合ってた、
破綻してなかったとしても、
シニフィエが合ってない文章は、
たとえば狂った人の文章や、
認知症になった人の文章を読むと良い。
精神に悪影響があるので、
「夢の中の文章」にでもたとえようか。
夢日記をつけたことはあるだろうか。
「その時は辻褄があってるのだが、
あとで落ち着いて考えると意味がわからない」
というものになるだろう。
それはシニフィアンは合ってるが、
シニフィエが合ってないのだ。
言葉のつながりは「文法上は」合っている。
たとえば、
「烏が足を組んで、椅子の上に座っている。」は、
文法上は合っている。
しかし現実にはそんなことがないだけだ。
烏が足を組むことも、烏が座ることもあり得る。
足を組むことも、座ることも、椅子と結びつきが強い。
しかし烏は椅子に座らない。
座るのは、物語の中の(異常な)状況と、
夢の中だけだ。
(実際、統合失調者や認知症者が見ている光景は、
夢の中に似ていると思う。
シニフィアンは整合性を保っている。
シニフィエが少々おかしいだけだ)
言葉同士の結びつき、
質問と回答の結びつきなどの、
言葉同士の整合性はあっている。
しかしその示す内容が現実と乖離していて、
整合性=意味を成していないのが、
狂った人、夢の中、AIに共通していると僕は思うね。
ちなみに、出来ない人が書く脚本も、
これに似ている。笑
そういえば、
「初めてAIが絵を描いた!」
というGoogleの成果を見た時、
みんな悪夢のようだと同じ事をいったね。
光線や形や色はあってるのかもしれないが、
「なぜこれを絵にするのか」
「これを絵にしてどうしたいのか」
という意味が不明だから、
不気味で狂ってると思えるわけ。
逆に、
私たち人間は、
シニフィエ、意味を取ろうとするので、
多少シニフィアン、形式が間違っていても文句は言わない。
役所に提出するなら形式のミスは致命的かもしれないが、
誤字脱字くらいは、
「人間のすることだから」と、
それを目くじら立てるよりも、
「何を言おうとしたのか」と、
意味を取ろうとする。
極端なやつがケンブリッジ大学の例文だね。
(実際にはケンブリッジ大学の実験じゃないらしいが)
「こんちには みさなん おんげき ですか?
わしたは げんき です。 この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく」
あるいは、
おじいちゃんおばあちゃんが、
なんとかして意思を伝えようとして、
間違った言葉を使っても意味を重視する。
子供の言葉もだ。
間違いはかわいいものとして愛でる。
つまり、私たちはなぜ言葉を用いるのか?
ということだ。
意味を伝えるためだ。
形式を正しくつなげるためではない。
正しくつないだほうが誤解を避け、
コミュニケーション速度は上がるが、
致命的な意味の間違いがないかぎり、
文法上の致命的な間違いは重要ではない。
それおこうするのだ、
と書いても「おはをの間違いだな」と、
看過してくれるものである。
なぜなら文章の正体は意味だからだ。
形式ではない。
AIが紡いでいるのは形式であり、意味ではない。
そのように言う事ができる。
言葉がきれいであっても、内容が狂ってる。
すげえディストピア。
表面だけ綺麗につくろって、
何も生み出していないAI。
我々はそれに意味を与えなければならない。
人間だけが、意味を生み出せる。
いつかAIが意味のあることを言い出して、
はじめて知性だろうね。
2025年11月22日
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