2025年12月04日

論文と物語は何が違うのか2

アンチテーゼの違い。


物語において、アンチテーゼは敵という人間に代表される。
この敵に主張があり、
その価値観を倒すことで、
アンチテーゼがまちがっていることを示すことが多い。
つまり、論破とはあまり関係がない。

「お前は間違っている、〜〜だ」
「なるほど、ぎゃふん」
は物語ではない。
たとえば主人公Aと敵Bがいて、
敵Bが「勝つためには手段を選ばない」という主張をしているとしよう。
何かしらの対決(野球でも総合格闘技でも)で対決して、
クリーンな勝ち方をするAを描き、
Bのやり方にブーイングが浴びせられて、
ようやくBは間違っていたのだ、
Aが正しいのだ、などとやるのが物語である。

つまり、論破ゲームを物語ではしない。
途中ですることはあるが、それはクライマックスではない。
映画的に映えないからだ。
もっと大きなアクションのある場面に集約させるものだ。
だから、直接の論の張り合いではなくて、
別の対決において、
間接的に主張するのである。

このとき、テーゼ(テーマ)は、
明示的主張ではなく、暗示的な間接的なものいいになる。
悪が滅びることで、正義の勝利を主張するわけだ。

もちろん、正義と悪のような簡単な物語だけではない。
もっと複雑なものであっても原理は同じである。
テーゼvsアンチテーゼが対立したとき、
「どちらが正しいか、
(主張以外の何かで)決めよう」
となることがとても多い。

ところが論文は、そんなまだるっこしいことはしない。
アンチテーゼを「敵」というものに象徴させることはない。
敵を倒すことがアンチテーゼの棄却である、
などのようには考えない。
単に三段論法で進めていくだけの話だ。

たまに、棄却仮説を立てて、
もっともらしいそれは検証の結果間違っていたのだ、
ということはあるけれど、
それは敵というものには象徴されず、
単なる棄却仮説Xにすぎない。
そしてそれは、実験や考察によってまともに論破されるのみであって、
クライマックスもアクションも間接的主張もしない。
あくまで直接論破にすぎない。

つまり、
論文は正しいが娯楽ではなく、
物語は娯楽である、という違いだ。
物語には厳密な正しさすら必要ない。

そして、論文は、わかり切ったことは今更証明しない。
新しく発見された、常識を覆すようなテーゼが求められている。
なぜなら、わかっていない世界をさらにわかるようにすることが科学の目的だからだ。

物語は、わかり切っていることを証明するにしても、
新しいやり方だと楽しめる。
悪は間違いだ、正義は正しい、というパターンの物語は、
とくに何万回、何億回とつくられているだろう。
それくらい、
「正しいことを確認すること」が娯楽になる場合が多い。
「親孝行」がテーマになる物語も多いだろう。
「人を思いやること、愛」がテーマの物語も多いだろう。
あまりにも正しくて、今更でも、
おもしろいアンチテーゼがでてきて、
それを倒すのにスカッとするならば、
物語は需要がある。

つまり、物語は同工異曲で楽しめるならば必要だが、
論文は同値であり、証明の仕方が同じならば同一なので、
必要とされていない。

もちろん、論文同様に、物語のテーゼとアンチテーゼが新しい場合もある。
古い価値観の物語だけが必要とされているわけではない。
とくに現代にアップデートした価値観の物語は、
「今っぽい」という評価を受けることになるだろう。
ただし、時代が変わったら、恥ずかしくてみてられないものになるかもしれない。
古典的な価値観は古いが、古びない。
このへんのバランス感覚も求められる。
論文は、新しいものだけが価値がある。
時代が変わろうが科学的真実は変わらないからね。


似ているようで違うし、
違うようで似ていることが多い。

それは、どちらもあるテーゼが正しいと証明すること、
が大枠同じだからだ。

手段や目的が違う、以外は同じことなのかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 07:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック