タイトルだけめっちゃ気になってて、
でもよくある恋愛ものの匂いしかしなくて、
一応坂元裕二だし見とくかと見てみた。
古くて新しいのはわかる。
でもこれってさ、
何故彼らはサブカル男女になったのか、
という始まりの前のことがないんよな。
そこに触れたらいろんな土台が崩れるからなんだけど。
以下ネタバレで。
若者は、「自分が特別だ」と思いたい。
だから、○○を知ってるとか、
○○を評価してるとかで、
自分のアイデンティティをつくり、
「私は○○好きな人」というラベルを貼る。
それがサブカル好きの正体だと思う。
サブカル好きはセンスを問われる。
自分は特別な選球眼を持っていると思われたいからだ。
しかしサブカル好きは自分でつくらない。
そんなに好きなら自分でもつくりたくなるだろうが、
自分ではつくれない。
才能がないからだ。
「才能のない自分が、
それでも自分が特別になりたいから、
その特別性を、
『○○にくわしい』に求める」
のがサブカル男女だと思う。
もし彼らが作る側の人間であれば、
さっさとコミケに行く。
そこではてっぺんから末端までいて、
戦場になっている。
その戦場に参加すると、
自分の特別性が崩れるから、
決して彼らは戦場にはいかない。
あくまでファン側にいる。
戦場で全勝ちすることはない。
負けることがほとんどだ。
それでも生き延びる方法を身につけて、
ひとつの島をつくるまでやれるかが、
物を作る人たちの世界だ。
そんな覚悟も才能のない、
しかし自分は特別だと思いたい人たちが、
「自分の好きな作家は○○と○○と○○と……
○○です」といって自分の色をアピールする。
若者ならばしょうがないかもしれない。
彼らは本当に何も自分でもってないから。
だから他人の作ったもので、
自分を飾るしかないから。
だけど大人になったら、
自分の作ったもので、自分を飾らなくてはならない。
この物語は、
1人の人格の分裂過程を描いたものである。
サブカル好きのままの理想的なままの自分がいて、
サブカル好きに興味がなくなっていく、
時間のない社会人がいて、
それぞれがゆっくりと引き裂かれて、
ただ抵抗する若さを失うまでの物語だ。
恋愛とは違う人格とするものだけれど、
実はこの物語は1人の物語だと僕は思う。
「私の家の本棚と同じ」人がいた、
というのは現実では奇跡だが、
物語の世界では、
つまりは同一人格ということだ。
付き合う前の前半戦のほうが、
他者として違いを埋める様が興味深かったが、
いったん1人の人格として融合したあとは、
分裂の過程が痛々しく、
そして疲れるまでを描いていた。
よくあるすれ違い、といえばそれまでかもしれないが、
パン屋の閉店を惜しむ、
「ただ他人から与えられたものを消費する人格」と、
そんなことどうでもよくて、
「仕事でいっぱいいっぱいで、
何もできなくてただゾンビのようになってる人格」に、
分裂していっただけだ。
そんなに焼きそばパンが好きなら、
お店を継げばいいのに、それをしない。
麦(菅田将暉)は、
結婚すればきみは働かなくて済む、
ずっと漫画や小説や映画を見続けられるという。
それは、
「僕の代わりに好きだったそれをやり続けてくれ」
という、人格の分裂を守る行為だった。
絹(有村架純)には、
その悲痛な痛みは伝わらない。
私と同一な人が好きだからだ。
でも、
そもそもその根本に立ち入ってないので、
僕は薄っぺらいと感じたのね。
なんでサブカルが好きになったんだっけ?
の、根本が抜け落ちてると感じた。
つまりこの物語は、
何者にもなれてない男女の物語なのだ。
「なんで俺、漫画や小説や映画が好きになったんだっけ」
というメタを問わないのは、
これが作者にとっての急所だからではないかな。
そこを問うたらカラクリがばれてしまい、
お前の脳内の分裂話やないかになってしまうからではないか。
なぜ絹は、
「私はなぜ、漫画や小説や映画を好きになったんだっけ」
を問わないのだろう。
何者にもなれてない自分を、
なぜ就職という形で延長していたのだろう。
「2人ともバイト暮らしでよくない?」
と、延長するストーリーラインもあったのに、
就職してしまったのは、
その無意識、私は何者でもない、
に気づくのが怖かったからではないか。
実のところ、絹の後半のストーリーラインは甘い。
「向こうの仕事が忙しくて、
全然噛み合わなくなる」しかやってないからだ。
転職しているものの、
別にオダギリジョーと浮気したわけでもない。
(するシーンがあったがカットされた可能性はある。
最後に浮気をしたか聞いたシーンで、
あー1回ぐらいは絹はやったかもなー、
と察せられる。
「さわやか」のハンバーグを食べにいってたし)
絹はつまり、過去の自分である。
人(麦)が人生を進めるならば、
過去と決別しなければならない。
これはつまり、「劇画版オバQ」と同じ話なのだ。
大人になり、家庭を持った正ちゃんのところに、
子供の頃のままのオバQがやってくる話だ。
オバQは散々子供の頃の遊びをしたがるのだが、
正ちゃんは家庭もあるので帰ってくれといい、
2人が決裂するせつない話である。
なぜ我々はうまくいかないのだろう、
あの頃の事をやりたいだけなのに、
あの人は変わってしまった、
というのは、
あらゆる人々の別れにありえる理由だけれど、
それが、
「子供」と「大人」の対比として、
このオバQの話は名作だ。
これを、
「花束みたいな恋をした」と、
シュガーコーティングしてるのが、
かなり鼻についてしまった。
子供部屋おじさんじゃん。
そうそう、彼らはネット人格がないな、
って思った。
SNSではどういうキャラで生きてたのかがわからない。
彼らの見るサブカルは全部ネット以前のもので、
YouTubeもTikTokもインスタもVTuberも見てないのが、
かなり不思議だった。
(あと何があるっけ。なにかのdiscordくらい見てそうだが)
「権威のある」「既にヒットした」ものしか、
摂取しようとしてなかったのかな。
それはそれで現代のサブカル男女っぽいけれど。
この物語にきちんとケツをつけるなら、
好きなものを仕事にする悲しみを、
もっと描くべきだった。
好きなものの裏を知り、
それでもサブカルを提供する側にいければ、
花束は、ドライフラワーになってもなお美しかったろう。
その、どうにもならなかった人生は、
記念写真にしかならないのだろう。
だからGoogleマップというオチになったのだと思う。
菅田将暉も有村架純も、
いい芝居はしてたよ。
でもなんか表面的だったのは、
シナリオが表面的だったからだね。
豆腐メンタルがグズグズに崩れて、
なお不死鳥のように復活するほどの、
強いシナリオではなかったからね。
ラスト(相手の事を思い続けていること)を、
再会フラグと取るか、
永遠の別れ(過去の思い出に浸ってるだけ)と取るかは、
解釈の側に委ねてるのがずるいよな。
好きなものを仕事にすることを描ければ、
この物語に第二章はありえる。
でもたぶんないと思う。
有村架純も菅田将暉も老けるギリ手前だったし。
その偶然を含めて、奇跡のライブみたいな感じ。
すごい偶然が重なったけど、それだけみたいな。
2025年12月04日
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