2025年12月09日

ハイドラマ、ロードラマという分類法

岡田斗司夫が切り抜きでおもしろい概念を提唱していた。
ハイドラマ、ロードラマという分類だ。

【理解難易度SSS】”見る人を選ぶ”ってレベルじゃないんですよ。松本人志のやろうとしてた事はマジで難しすぎたんです。【大日本人/ダウンタウン/岡田斗司夫/切り抜き/サイコパスおじさん】
https://m.youtube.com/watch?v=gIFFWRperhE
(結構長いです。23分あります)

このハイドラマ、ロードラマというのは、
もう少しこなれた言葉になると思った。
はいシンキングタイム。


僕は、
ハイドラマ、ロードラマという言葉よりも、
間接表現、直接表現、
と言い換えた方がよいのでは、
と感じたね。


コメントを見ると、
ハイコンテクストドラマ、ローコンテクストドラマと、
勘違いしてるバカがいるからね。

ハイコンテクストは、
作品内で与えられる情報よりも、
画面の外で与えられる情報が豊かで、
それを前提としているものをいう。

いわゆる「分かってる人」用だ。
シリーズものなんかはその典型だ。
(だからシリーズものはどんどん先細る。
新規流入者はハイコンテクストすぎてついていけないからね。
たとえば今からガンダムやスターウォーズは見ないだろう)

あるいは哲学者の言葉の引用がやたら多かったりなどは、
よくあるハイコンテクストだ。
実際のところ、その名言ほどの内容を生み出せないゆえの、
ハッタリ要員であることが多いけど。

わかりやすいハイコンテクストは、
「この2人この映画の時不倫してたんだって」とか、
「遺作」とか、
「沢尻エリカ復帰第一作!」とかだろうか。
作品内の情報とは関係ないコンテクストが、
重なるわけだ。
(興行サイドはそれを巧みに利用する)


ハイコンテクストは、ヲタクの楽しみだ。
自分の豊富なヲタク知識が色々な影響を与え合うわけで、
作者も同じレベルのヲタクだとわかって、
「楽しい〜分かってるう〜」ってなると思う。

コメント中に藤本タツキの「ぼくの絵梨」が例に挙げられてたが、
あれはハイコンテクストであって、
ハイドラマの部類には入らないだろうね。
藤本タツキって作家は、
ハイドラマ、つまり何か難しい顔をしたら相手が勝手に想像してくれるような、
何かをやろうとして、
実はペラペラのロードラマしかできないので、
表面をハイコンテクスト装飾にして誤魔化している作家だと思う。
チェーンソーマン以前までしか読んでないので、
その後別の方向に転じてれば、
この作家評はそこまでのものを対象にする。

難しいのは、
間接表現、ハイドラマは、
すぐに作者のオナニーになりがちということだ。

読み取れよ、読み取れねえよ、
という綱引きをやるようならば、
それは間接表現として機能してないのだ。
京都人がどれだけ嫌味を言っても伝わってないのと同じだ。

だから、間接表現は、
表現者と観客の間に、
一種の連帯が必要だ。


この、連帯の感覚が、
「俺たちは分かってる、ずらしの笑いの世界にいる」
という選民意識によって作られているのが、
松本の映画というわけ。

日本の作家はこれになりがちで、
「これを分かる人は分かってる人、
それについてこれる人は仲間」みたいな、
リトマス試験紙としてこの間接表現を使いがちなんよね。

象徴表現なんかが自国文化のものを使わずに、
キリスト教でいうとAはBの象徴なのだ……!
みたいなものを持ち出しがちなのも似ている。

そういう意味では、
ハイドラマ、間接表現をやろうとして、
誤って共通知識の必要なハイコンテクストにしてしまっている、
というのが、
松本を含め、多くの自称映画人の陥りがちな、
オナニーであるということだろう。


では正しい間接表現は、
何を連帯の感覚にするべきか。

人生だ。

良い映画というのは、
人生経験はみなおなじだろ?
だからこの気持ちはわかるよな?
というところに、落としどころをもってくる。

ETの例はわかりやすく、
「子供の頃別れた友達には一生会えない」ことを知ってる大人のほうが、
むしろ号泣するよね。
ターミネーターの例もわかりやすく、
言葉で説明するよりも、
「これからとてつもない事が起こるが、
何が起こるかは知ってるし、
その覚悟はできている」
という人生への態度こそが、我々を感動させるんよな。

スタンドバイミーとかもそうよね。
「あんな友達は二度とできない」に、
号泣するのは大人だ。
当の小中学生ではないだろう。

アマデウスなんてもっとすごくて、
「あんなやつの才能は俺にはなかった。
どうして本物に会ってしまったのだ」
というためだけの映画だ。
本気で何かを目指したやつが、
必ずぶち当たる壁という人生を、
描いているわけだ。


スピルバーグの巧みなのは、
子供映画のふりをして、
子供映画的なラストを描いておいて、
真にこの意味が分かるのは大人である、
というラストカットに託していることだよね。

僕が子供の頃にしかこれが見れず、
大人になってから再見できなかった
(ETは長らくビデオソフトにならなかった)ので、
このことに「いけちゃんとぼく」のときに、
気づけなかったのは悔いが残る。
(いや、無意識ではハイドラマにしようとしていたのだが、
映画会社はロードラマを望んだのだろう。
サイバラ原作はかなりのハイドラマだというのに)


もちろん、
これは全編ハイドラマ、全編ロードラマに、
調子を整える必要を訴えているのではない。
初めはわかりやすくロードラマに、
決めになるところをハイドラマにすると、
名作ハリウッドみたいになるぜ、
という話よね。


全編ハイドラマをやろうとして、
ヒーローもののお約束を崩すというパロディ(ハイコンテクスト)
をやり、
さらにラストをロードラマにふって、
「残念でしたー!」って言ってるようなオナニー、
「大日本人」を僕は許していない。

未見ならば必須だね。
なぜあれがダメか、
改めて議論するに値する。

松本はあの頃笑いの神で、
びじゅあるばむなどでも神だったが、
映画の尺では神ではなかった。
その理由はなぜか?を考えるのも面白い。
posted by おおおかとしひこ at 09:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
素晴らしい解説
「正しい間接表現」、染みました
Posted by 同業者 at 2025年12月09日 14:24
>同業者さん

ありがとうございます。

間接表現には結果的に2種類ある、
本編とは別の雑学や関連知識(や教養)が特別に必要なものをハイコンテクスト、
本編とは別の知識が必要だが、
それは普遍的な人生のこと、がハイドラマだ。

というふうに分類したほうが、
あとで見返す時にわかりやすくインデックスできたかもしれない、
と思ったので、
今ここに書いておきました。
Posted by おおおかとしひこ at 2025年12月09日 14:52
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