という質問が来ることはよくあることだ。
これはどうしたいのか?を聞きたいのではない、
ということを考えると、
次に考えるべきことがわかる。
この質問を真に受けると、
「何かをしたいからこの物語をつくったわけではない、
この物語が語りたいから語ったのだ」
なんてことになってしまう。
これは対話が拒否されていることになる。
芸術家対素人の構図になってしまうのでよくない。
なんでこんなことを聞きたかったのかまで、
戻るとよい。
「私はこの物語がつまらなかった」
と言いたいんだよ。要するに。
そして、
「私はなんらかの影響をこの物語から受けなかった」
とも言っているわけなんだ。
さらに言うと、
「私はすぐれた物語から影響を受けたい」
と思っている、ということなんだ。
だから、
「何がしたかったの?」「何目的でこれをつくったの?」という質問に、
なるんじゃないかと思うわけだ。
影響の度合いが、
すぐれた物語と比例しているわけではない。
しかし、すぐれた物語ならば、
なんらかの衝撃があり、
人生観が変わるほどの何かがあるはずだ。
人生酸いも甘いもかみしめた人に通じるものもあれば、
まだ若くて人生経験が足りない人に響くものもあるだろう。
なんにせよ、
響き、影響されたいと、
人は思っているものだ。
物語はそれくらい偉大なものだと思われている、
ということである。
どうしたい、という質問には、
笑わせたいとか、泣かせたいとか、
感動させたいとか、
そういうことしか答えられない。
人生を見つめ直してほしいとか、
これまで誰も言わなかった人生の真実は〇〇なんだ、
ということではないだろう。
でもそれが真に書かれていると、
「どうしたかったの?」とは質問しない。
それを受け止めて、自分のものにしている途中だからだろう。
つまり、目的と質問が一致していないんだよね。これ。
どうしたいんだ? どうしたかったんだ?
何を与えたいんだ?
何目的だ?
ターゲットは誰?
たぶん、全部同じ。
私はこの物語から影響を受けなかった、
見る前と見た後で何も変わらず、
時間を無駄にした、
ということが言いたいわけだ。
つまり、
見たことによって、影響を激しく受け、
これまでの人生観が揺さぶられ、
受け止めきれない何かが欲しいんだよ。
だったら、その時間は無駄であるどころか、
神に出会った瞬間だともいえるわけ。
そのためなら、人生を棒に振ってもいい人はいるよ。
その期待に応えるほどの、
影響が与えられなかった、ということなんだよ。
あなたは「影響を受けたい」と思って、
物語は見ない。
「なんかおもしろそう」くらいだろう。
でも、心の奥底で、
ほんとうは影響を受けたいと願っている。
名作はそういうものだからね。
そして名作に達していないとき、
糞映画でした、というのだろう。
つまり、真の目的は言語化されていない領域にある。
だから、不具合がある時にふと顔を出すんだな。
「〇〇だとは思わなかった」
ってクレームをつけても、
「いや、最初に〇〇が欲しいっていえよ」
ってなるやつと同じだ。
最初から〇〇だと人は言えないのだ。
無意識下にあるものだからだ。
うまい飯が食いたい、とはどのようなことだろう。
単に味がうまければいいのか?
そこに至るストーリーや、
そこからのストーリーも重視するだろうね。
命の一部をいただいているような、
命の躍動がある飯を食いたいよね。
細胞が入れ替わるような、そういう飯だ。
つまり、味が欲しいのではなくて、
私は「生きる」という実感が欲しい、
というのがうまい飯が食いたい、
ということの隠れた無意識だと僕は思う。
極論、富士登山でもして、頂上でカップラーメンを食べたらめっちゃうまいよ。
そういうことだ。
味を求めているわけじゃないんだよ。
いのちを求めているんだよ。
じゃあ、物語を求めてるとはどういうことか?
を、心の奥底までたどって、
言語化できていないところを見つめるしかない。
人類は有史以来物語を渇望している。
現実逃避したいから?
ただの娯楽として消費したいから?
そうじゃないよね。
2026年02月15日
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