2026年02月15日

これを見せてどうしたいの?

という質問が来ることはよくあることだ。

これはどうしたいのか?を聞きたいのではない、
ということを考えると、
次に考えるべきことがわかる。


この質問を真に受けると、
「何かをしたいからこの物語をつくったわけではない、
この物語が語りたいから語ったのだ」
なんてことになってしまう。

これは対話が拒否されていることになる。
芸術家対素人の構図になってしまうのでよくない。

なんでこんなことを聞きたかったのかまで、
戻るとよい。


「私はこの物語がつまらなかった」
と言いたいんだよ。要するに。

そして、
「私はなんらかの影響をこの物語から受けなかった」
とも言っているわけなんだ。

さらに言うと、
「私はすぐれた物語から影響を受けたい」
と思っている、ということなんだ。

だから、
「何がしたかったの?」「何目的でこれをつくったの?」という質問に、
なるんじゃないかと思うわけだ。


影響の度合いが、
すぐれた物語と比例しているわけではない。
しかし、すぐれた物語ならば、
なんらかの衝撃があり、
人生観が変わるほどの何かがあるはずだ。

人生酸いも甘いもかみしめた人に通じるものもあれば、
まだ若くて人生経験が足りない人に響くものもあるだろう。

なんにせよ、
響き、影響されたいと、
人は思っているものだ。
物語はそれくらい偉大なものだと思われている、
ということである。


どうしたい、という質問には、
笑わせたいとか、泣かせたいとか、
感動させたいとか、
そういうことしか答えられない。

人生を見つめ直してほしいとか、
これまで誰も言わなかった人生の真実は〇〇なんだ、
ということではないだろう。

でもそれが真に書かれていると、
「どうしたかったの?」とは質問しない。
それを受け止めて、自分のものにしている途中だからだろう。

つまり、目的と質問が一致していないんだよね。これ。


どうしたいんだ? どうしたかったんだ?
何を与えたいんだ?
何目的だ?
ターゲットは誰?

たぶん、全部同じ。

私はこの物語から影響を受けなかった、
見る前と見た後で何も変わらず、
時間を無駄にした、
ということが言いたいわけだ。

つまり、
見たことによって、影響を激しく受け、
これまでの人生観が揺さぶられ、
受け止めきれない何かが欲しいんだよ。

だったら、その時間は無駄であるどころか、
神に出会った瞬間だともいえるわけ。
そのためなら、人生を棒に振ってもいい人はいるよ。

その期待に応えるほどの、
影響が与えられなかった、ということなんだよ。


あなたは「影響を受けたい」と思って、
物語は見ない。
「なんかおもしろそう」くらいだろう。
でも、心の奥底で、
ほんとうは影響を受けたいと願っている。
名作はそういうものだからね。
そして名作に達していないとき、
糞映画でした、というのだろう。

つまり、真の目的は言語化されていない領域にある。


だから、不具合がある時にふと顔を出すんだな。
「〇〇だとは思わなかった」
ってクレームをつけても、
「いや、最初に〇〇が欲しいっていえよ」
ってなるやつと同じだ。
最初から〇〇だと人は言えないのだ。
無意識下にあるものだからだ。



うまい飯が食いたい、とはどのようなことだろう。

単に味がうまければいいのか?
そこに至るストーリーや、
そこからのストーリーも重視するだろうね。
命の一部をいただいているような、
命の躍動がある飯を食いたいよね。
細胞が入れ替わるような、そういう飯だ。

つまり、味が欲しいのではなくて、
私は「生きる」という実感が欲しい、
というのがうまい飯が食いたい、
ということの隠れた無意識だと僕は思う。

極論、富士登山でもして、頂上でカップラーメンを食べたらめっちゃうまいよ。
そういうことだ。
味を求めているわけじゃないんだよ。
いのちを求めているんだよ。


じゃあ、物語を求めてるとはどういうことか?
を、心の奥底までたどって、
言語化できていないところを見つめるしかない。

人類は有史以来物語を渇望している。
現実逃避したいから?
ただの娯楽として消費したいから?
そうじゃないよね。
posted by おおおかとしひこ at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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