2026年01月14日

【薙刀式】書くことと考えること

Twitterから。
> 親指シフトで入力し始めた頃は、頭の中にあることを即座に文字に変換できている感覚があった。まさに指がしゃべっているようだった。慣れてきて数年になるが、最近は頭の中にあるアイディアを言葉にする部分がボトルネックになっている。感覚的に紙に書き出す方が速いとすら感じている。

これは僕が10年かけてタイピングを研究
(というか自分用に変形)してきたが、
いまだに手書きの方が優秀だと思う感覚に似ている。

なぜ手書きの方がタイピングより優秀なのか?


【仮説1】手書きは漢直だから

これはあると思う。
カナ漢字変換で思考が分断される。
ストレートにいかずに1回別の思考が挟まれるのは、
100%の力を発揮できてないのではないか。

じゃあ、「ひらがなメモ」ならどうだろう?

以前試した経験によれば、
2000カナ/10分のペースで書けることがわかっている。
これなら思考がまるっと出た感じになる?

じゃあ音声入力の方がいいかな?
どれだけ訂正しなきゃいけないのかの、
現実的なレベルがわからんのでわからんが。
(どの音声入力の記事を見ても、
「かつてより賢くなった」しかないんだよなー。
定量的なデータが欲しい。
1000字しゃべって訂正5箇所とか)

僕は、日本語は漢字とひらがなで考える言語だと思っている。
脳内発声ありで考える人は音で考えるのかもしれないが、
僕は脳内発声がないので、
漢字とひらがなで考えるのね。
それが次の仮説。



【仮説2】書いた字によるフィードバックで考えるのは、
 手書きの方がいい

タイピングのフィードバックは視覚だ。
(しかも候補選択や文節伸長のノイズつきのね)
触覚のフィードバックはキーの反発と、
手首がついたり浮いたりする感覚かな。

ところが、
手書きのフィードバックは、
視覚より触覚の方が大きいと思う。
スラスラとかぐぎぎぎとか、なめらかとかジャギジャギとか、
書く感触に感する言葉は多い。
視覚的にはきれいとかまがってるとかあるけど、
「書く」は触覚と結びついていると思う。

つまり、
「自分が何を書いたのか」を、
無意識に人はフィードバックを受けている。

書くという行為は、
ただ自分の思う事を吐き出せば終わるのではない。
「自分が一体何を書いたのか」を客観視して、
客観的に伝わるように書かなければならない。
つまり、
「自分が最初の読者になる」が必要だ。

手書きだと、
書く行為と、
触覚によるフィードバックによる何を書いたかの客観視が、
同時に来るのではないか?

タイピングで、
「私が最初の読者である」という自覚はあるかな?
どっちかというと喋りっぱな感じじゃないかしら?

「見直せば済む」という問題ではない。
その前に客観視が行われている事が、
「書く」という行為ではないだろうか。


つまりタイピングって、
しゃべりっぱなしに近いのではないか。
もちろん、しゃべるという行為には、
耳で自分の言葉を聞く客観視がある。
しかしタイピングは視覚しかないし、
ノイズはガンガン挟まるしで、
つまり、
「無反響ルームでしゃべる」
みたいなことに近いのではないだろうか?

言葉が出てこないのはそれじゃないかな?
言葉がどこから出てくるか、
という問いだと思う。

無から言葉が生まれて、ベルトコンベアーで運ばれるのではない。

人は、書いたことから次の言葉を生む。

軸足がはっきりしてるから、
次の一歩を踏める気がする。

私はここまで論じた、
だから次のことはここから行けばいい、
と分からないと、
「次何を言うか」は決まらない。


それは、書いたものを視覚で見直すよりもかなり手前の段階、
触覚によるフィードバックで決まってるのでは?

ひらがな多めの文章ならば、
タイピングでもできそうだ。
しかし高度な抽象的な思考は、
難しいんじゃね?

「こうどなちゅうしょうてきなしこう」は、
まあ1発変換できそうだから、
これも行けるのかもしれない。

薙刀式が重視したのはアルペジオ打鍵で、
それはつまり線の打鍵だ。
タイピングであってもなるべく線の軌跡を残して、
その線で、
「何を書いたのかを把握する」のではないだろうか?

だから、点による左右交互打鍵って僕は本質的に好きじゃない。
悪運指になっても、片手で線を刻み、
その線によるフィードバックがあったほうが、
「自分が何を書いたのか」がわかるのでは?
と考えている。

薙刀式では「いる」はKIという、
ローマ字では散々言われてる同指縦連なんだけど、
薙刀式の感想でよく出るのは、
「いる」が打ちやすいってことなんだよね。
不思議だな。僕も打ちやすいって思う。
それは、「いる」という基本的な言葉が、
線になってるからなんじゃないかって仮説を立てている。

線というフィードバックがあるから、
何を書いたのか、自分で把握しやすいのでは?と。


それのもっとリアルで複雑なフィードバックが、
手書きなんじゃないのか?



この人のツイートに戻ると、
言葉が出ないのは自分が何を書いてるか分からなくなってるからではないか?
って思うんだよね。

もちろん頭から読み直せば、
修正したり次何を書くべきか分かったりするんだろうが、
道を見失いやすい理由は、
無反響ルームでしゃべってるからじゃないかなあ。
しかも漢字変換のノイズつきでね。



【仮説3】手書きは紙の空間の位置で概念を記録している

手書きの場合、
右上に書いたやつとか、左のほうに書いたやつとか、
そういう空間配置で概念を覚えてないかい?
だから、
あれとこれを組み合わせようなんて、
ポインタがわりにならないかい?
つまり、思考が2次元になってると思うんだ。

一方タイピングだと、そんな自由な書き方ができないので、
1次元で書いたものにならないかい?

箇条書きで書いても所詮1次元。

手書きならその横に書いたり、斜めに書いたり、
丸で囲んで線で引っ張ったりできるよね。

その、空間レイアウトが次のアイデアを連れてくる。
まだ気づいてないところはどこか、
どこまではわかってるか、
文字通り考えの地図になってるわけ。

それが、スクロール自由の1次元のエディタでは実現できてない。


僕は昔これに気づいて、
AdobeのIllustratorで付箋みたいなのをつくって、
そこにテキストを書いて、
自由に動かせるようなファイルを作ってみたことがある。
でも付箋が20〜30になると、
俯瞰できなくてねえ。
ズームインズームアウトがめんどくさくて。

「だったら紙の付箋でA3ぐらいの紙に貼り付けた方が早いのでは?」
と思い、
2次元思考をしたいときはそれを使う。
黒板やホワイトボードで考えるのもそれだよね。

並び替えたり一覧したり、
近づいたり遠ざかったりするのに、
デジタルはむいてない。


【仮説4】手書きの方が「まだ仮」という感覚が強い

デジタルはきれいな印字であるが、
それによって「もう確定してしまって動かせないもの」
というイメージになりがち。
だから訂正するときは、てにをはを直すとか、
名詞を変更するとか、
構造全体に手を入れることなく、
枝葉末節をなおしがち。

それに比べて手書きは、
「まだ全部仮である」という顔をしてるので、
いくらでも直せる。
一段落全部線を引いて、
もう一回書き直してもいい。
あそこの文とこっちの文をくっつけて、
1/3削るとかもできる。
つまり粘土のような可塑性がある。

この、「いくらでも直していい」という感覚は、
「カーソルやBSやDELを用いて消して、
穴が空いた部分をタイピングで埋める」
という01の感覚とは異なると思う。
デジタルの穴をデジタルで埋めようとするから、
枝葉末節の直しになって、
根本的にずれてる構成を直そうと思わないのではないかなあ。




こんなことがあって、
僕は10年真剣に、
それこそ仕事並みに一生懸命タイピングを研究したけど、
「そんな役に立つのか?」
ってずっと思ってるのよね。

手書きでできる事ができなくて、
じゃあタイピングでできることってなに?
がわからない。
こうして書いた事をすぐに発信できることぐらいしか、
タイピングの有効性ってなくない?って。
内容の深さやアイデアの面白さや練られた感じは、
手書きに負けてない?って。

つまり、タイピングって練るのに向いてなくない?って。



それはあんたが手書きがすごいできるからだ、
って反論はあるかもね。
ならタイピングにかまけてる時間を全部手書きに使えばいいじゃん。

僕は、タイピングでは脳が発達しないと感じてて、
手書きなら脳が発達すると思っている。

手で考えたほうが、
アイデアもひらめきやすいし、
俯瞰もしやすい。
それは、手とともに脳が変形していくからだと思っている。
脳が変形というと物理に見えるけど、
実際のところは脳内ネットワークの更新だな。

その、脳の変形がほとんどなくて、
しゃべりっぱなしの書きっぱなしになり、
書いたことによる自分の変化もないのが、
デジタルタイピングの一番悪いところじゃね?
って今は考えている。


つまり人は書くことで変化する。
しないなら、書けてないんじゃない?
posted by おおおかとしひこ at 12:37| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック