短編によくあること。
登場人物が、
「男」「女」みたいな抽象化している人物になりがちで、
「その人個人」になっていないこと。
たとえばCMだと、医者とか、主婦とか、サラリーマン、とか学生、
みたいな職業のキャラしか与えられていないやつ。
しばらくネタバレなしで続けます。
主人公は刑事である。
正義を愛し、悪を憎み、ときどきドジもするが、
困った人を放ってはおけない。
こういう登場人物がいたとしよう。
これは「刑事という概念」のキャラクターだ。
これは人間ではない。
概念である。
短編ならば、刑事役といったときに、
これらを求められるだろう。
ある種の人間臭さとか、銃の扱いがうまいとか、
多少のアレンジはあるが、
基本的には「刑事役」というイコンから外れないだろうね。
これを脱するのが、
2時間の映画である、ともいえるか。
仮に刑事役だとしても、
「その人個人」を描くのが映画だと思う。
たとえば「刑事コロンボ」ね。
コロンボは基本的には刑事のイコン的なキャラクター像の範囲内ではあるものの、
型破りがはなはだしい。
よれよれのコートやシケモクで、頭をぼりぼりかく。
かならず奥さんの話をして、
話が終わったと安心させてから、
「あ、最後にもうひとつ」と振り返ってからが、
本番のはじまりだ。
こうしたものが、「キャラクター芝居」になっているのか、
それとも人間を描くのか、
ということだ。
コロンボの場合は、長期シリーズであることから、
キャラクター芝居になっている。
つまり、刑事役というイコンを変形して、
コロンボというイコンをつくっているだけの話である。
これは、短編だとひとつの刑事像でだいじょうぶだが、
長期だと持たないので、新しいキャラクター刑事をつくっているに過ぎない。
実際、彼が刑事をやっている理由や、
個人的な失敗や、トラウマの克服や、
個人的な恋愛話や家族の話はでてこない。
奥さんだっているのかどうかも分らない。
つまり、プライベートは実は謎だ。
ところが、映画はそのプライベートや内面に踏み込む。
内的ストーリーがそれで、
とくに恋愛ものなんて、内面に踏み込まないとできないよね。
仕事なら外面的なことだけで済むが、
それでも悩まない人間はいないし、
恐怖や勇気を使うなら、内面やプライベートの話が出て当然だ。
つまり、
概念とはそとづらである。
その人の中まで踏み込んでいない。
その人の特殊な事情や、
その人の個人的な思いなど、扱わない。
一見制服の看護師さんだって、
胸に挿すペンがディズニーの何かだったりして、
プライベートではそういうキャラなんだ、って気づいて、
萌えることあるよね。
なぜディズニーなのか、どうしてディズニー好きが看護師になったのか、
そういう「個人」が見えて、初めて映画だと思う。
さて、「フロントライン」だ。
この映画の中の登場人物は、
すべて職務を全うしているだけの、
公人であったように思う。
つまり、プライベートが全然わからない。
以下ネタバレにつき改行。
小栗の役は家族がいるのかも分らない。
窪塚はちょっと世間離れしているキャラクターだからまあいい。
池松には家族がいるが、
その家族は典型的な奥さんと子どもで、
彼個人のここにしかないエピソードはひとつもなかった。
森七菜も、「ダイヤモンドプリンセス号の船員」というキャラクターにすぎず、
彼女のプライベートの話は一切なかった。
だから、人間の奥底に入っていない、
というのがとても気になった。
彼らは仕事の意義については熱く語る。
それはとても良く書けてて、
胸を熱くするのに十分だった。
だけど、公人ではなく私人として、
なぜそういう境地にいたったのか、
彼のほんとうの姿はこうで、
それでいて、公人たる生き方をしている、
のような、そういう内面がひとつも描かれていないのが気になったんだよね。
もう医者やめようかな、って思うことだってあったはずだし、
福島で医者の無力さを分かったから、
政治のほうでなんとかする、なんて選択肢だってあったはずだろうに。
それでも家に帰ったら、普通の父、でもいいんだけど、
それでもまだ彼の「独特の話」にはならないと思う。
つまり、
映画に刑事役や医者役などはない。
あったら、それは脇役、端役なんだよ。
主役じゃない。
主役はもっと内面まで踏み込んで、
単なる概念やキャラクターを超えて、
「彼独特のストーリー」を見たいはずなんだよね。
仮に映画業界の話になったとしようか。
たとえばなぜ彼は監督になったのか、
なぜ彼はプロデューサーになったのか、
なんてことは、彼のプライベートな人生ととても関係あることだと思う。
よく仕事をするカメラマンがいるんだけど、
彼は実は実家が写真館なんだよね。
だからカメラがめちゃくちゃ好きで、
撮影部の仲間といつもカメラの話をしている。
そういうプライベートが見えるから、
彼に任せても大丈夫だって思える。
どんなに失敗しても、いい絵のために頑張ってくれると思う。
その写真館は親父の体力の衰えとともに閉めるそうだ。
でも親父さんは息子がカメラマンになってくれて、
とてもうれしいんじゃないだろうかと思うんだよな。
そういうちょっとした話が、
小栗にも、池松にも、窪塚にも、松坂にも、森にも、
全然なかったのが、
「彼らは概念である」と思ってしまう原因かな。
公人としては信頼できるかもしれないが、
私人としてはどうなんだろう。
公人としては信頼できないが、私人として信頼できてもいいと思う。
私人としては信頼できなくても、公人として信用できてもいいと思う。
でもみんな、「その役割を全うする公人としての概念」
になってるのがとても気になった。
もしこれが長期シリーズならば、
そういう内面のストーリーもあったかもしれない。
そこが欲しかったんだよね。
どういう私人として、この困難にあたったのか、
が知りたい。
唯一私人としてオリジナルだったのは、
アメリカ人夫婦の奥さんの話で、
「私が旅行に誘った」という負い目なんだよね。
そこがとてもよくて、「誘わなければ良かった」って、
彼女はずっと後悔していた。
その、プライベートこそが映画におけるドラマなんじゃないかと思う。
みんな過去を話せ、ということではない。
今現在の話でもいい。
こういうときにこういう判断を、私人として取ったから、
この人はいい、みたいなことでもいい。
松坂の役はそうだった。
最初は四角四面の役人としてきたけれど、
色々な手を使う、柔軟性のある人だった。
検疫官の責任を私は取りたくない、というのと対照的だったのもよかった。
そういう私人の部分が見えるのが、
仕事ものの一番おもしろいところだと思うんだよね。
たとえば飯を必ず2人前食う、
というのでもプライベートは出る。
2人前食うのは食えなくなる手術が多いから、みたいなことで、
普段の彼の感じが見えればそれでいいと思う。
丁寧で誠実な対応をしている森七菜の胸に、
ジャニーズのペンが刺さっていても、
いいと思うんだよね。
そういう、
なんか短編というか、CMというか、
通り一遍のキャラクターを見させられているのではなくて、
その人そのものに入りたかったところ。
群像劇だから無理、は通じないと思う。
それでもやるのが映画だと思うね。
ちょっとキャラクター数が多かったかもしれない。
糖尿病のお母さんと息子は、
「ただ状況に反応しているだけ」になってしまっているのが、
あまりおもしろくないよね。
ずっとtwitterで発信し続けるとか、
そういう役回りにもできたはず。
船のおもちゃしかエピソードがないのがねえ。
船長が最後に降りた、
といういい話のわりには、
船長は最後まででて来ないよなあ。
アメリカ映画だと、そこが準主役になるだろうな。
実際に感染専門医の六条が、
船に乗り込んで、2時間で追い出されるまでを描いてもよかったのではないか。
窪塚と衝突したんでしょ、多分。
外側だけをなめていると、描かずに事後から描きがちよね。
「実話そのもの」を僕らは期待しているわけではない。
実際にあったことをうまくフィルターに濾して、
「危機にあたって人間たちの本質があぶりだされたもの」
を見たいんだ。
「ほんとうにはなかったかもしれないが、
これは人間の本質である」
を見たいんだ。
これは再現ドラマではなくて、フィクションだってわかっているのだから。
だとしたら、
CMや短編のように、
「医師A」ではなくて、結城(小栗の役名)という個人の医者が、
どうDMATを率いるのか、
どういうもめごとがあって、それを収めて、
なんとかしていくのか、
というのが見たいものになるはずだ。
窪塚は「口は悪いがきちんとやることをやる、有能な懐刀」をうまく演じていたが、
彼自身のプライベートはもう少し見たかったね。
福島であったことを、
説明ではなくて、人間のドラマとしてみたかったところだ。
池松の家族の話も、
通り一遍の話ではなくて、「あったなあ」というものでもなくて、
もっとオリジナルの「恐れた群衆がやりがちだけど、
ここの映画でしか見れない人間の本質」まで、
行きたかったところだ。
それに対して、奥さんが「大丈夫だったよ」と気丈にいうと、
我々は感動すると思う。
なんかCMっぽいんだよ。あの場面。
よくある家庭の姿、よくある奥さんと旦那、よくある娘、
よくあるハウススタジオ、
になってて、全然響かなかったね。
あれがラストシーンになるには、
あまりにも概念すぎる。
唯一、マスクの跡だけが真実で、
あの家庭全部嘘なんじゃないかと思えるくらいには。
(もっともCM出身の関根光才がアサインされている理由は、
その嘘くささが狙いなのかもしれない。
つまりCMのような、存在しない幸福の概念こそが日常である、
ということかもしれない)
小栗、窪塚はとくに、
そういう概念的なキャラクターになりがちなのを、
芝居でかわしている部分が多かった。
セリフは概念的だが、
言い方に人生をにじませる的な芝居の方法論を取っていた。
シナリオ側にもっとそんなのがあればなー、
と思いながら見ていた。
医者は公人としては概念だが、
映画では私人であるべきだと思う。
むしろ、私人と公人の間で引き裂かれるべきだ。
役人、船員、乗客、マスコミが、
みんな公人としての行動やセリフばかりなのが、
映画だったか?
という疑問の原因なのではないだろうか。
つまり、逆に捉えると、
私人がどう公人としてやっていくのか、
ということが映画かもしれない。
「英国王のスピーチ」は、そういう映画だったね。
そこまで立てろとは言わない。
役柄が違うからだ。
市井の民草である医者を、そういう泥臭い存在として、
描いてほしかったなあ。
緊張と緩和が上手だっただけに、
技術が優れているのに、芯がないものに見えた。
2026年01月17日
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