2026年01月17日

登場人物が概念化している(「フロントライン」評2)

短編によくあること。
登場人物が、
「男」「女」みたいな抽象化している人物になりがちで、
「その人個人」になっていないこと。

たとえばCMだと、医者とか、主婦とか、サラリーマン、とか学生、
みたいな職業のキャラしか与えられていないやつ。

しばらくネタバレなしで続けます。


主人公は刑事である。
正義を愛し、悪を憎み、ときどきドジもするが、
困った人を放ってはおけない。

こういう登場人物がいたとしよう。
これは「刑事という概念」のキャラクターだ。
これは人間ではない。
概念である。

短編ならば、刑事役といったときに、
これらを求められるだろう。
ある種の人間臭さとか、銃の扱いがうまいとか、
多少のアレンジはあるが、
基本的には「刑事役」というイコンから外れないだろうね。

これを脱するのが、
2時間の映画である、ともいえるか。
仮に刑事役だとしても、
「その人個人」を描くのが映画だと思う。

たとえば「刑事コロンボ」ね。
コロンボは基本的には刑事のイコン的なキャラクター像の範囲内ではあるものの、
型破りがはなはだしい。
よれよれのコートやシケモクで、頭をぼりぼりかく。
かならず奥さんの話をして、
話が終わったと安心させてから、
「あ、最後にもうひとつ」と振り返ってからが、
本番のはじまりだ。

こうしたものが、「キャラクター芝居」になっているのか、
それとも人間を描くのか、
ということだ。
コロンボの場合は、長期シリーズであることから、
キャラクター芝居になっている。
つまり、刑事役というイコンを変形して、
コロンボというイコンをつくっているだけの話である。
これは、短編だとひとつの刑事像でだいじょうぶだが、
長期だと持たないので、新しいキャラクター刑事をつくっているに過ぎない。

実際、彼が刑事をやっている理由や、
個人的な失敗や、トラウマの克服や、
個人的な恋愛話や家族の話はでてこない。
奥さんだっているのかどうかも分らない。
つまり、プライベートは実は謎だ。

ところが、映画はそのプライベートや内面に踏み込む。
内的ストーリーがそれで、
とくに恋愛ものなんて、内面に踏み込まないとできないよね。
仕事なら外面的なことだけで済むが、
それでも悩まない人間はいないし、
恐怖や勇気を使うなら、内面やプライベートの話が出て当然だ。

つまり、
概念とはそとづらである。
その人の中まで踏み込んでいない。
その人の特殊な事情や、
その人の個人的な思いなど、扱わない。

一見制服の看護師さんだって、
胸に挿すペンがディズニーの何かだったりして、
プライベートではそういうキャラなんだ、って気づいて、
萌えることあるよね。
なぜディズニーなのか、どうしてディズニー好きが看護師になったのか、
そういう「個人」が見えて、初めて映画だと思う。


さて、「フロントライン」だ。

この映画の中の登場人物は、
すべて職務を全うしているだけの、
公人であったように思う。
つまり、プライベートが全然わからない。

以下ネタバレにつき改行。





小栗の役は家族がいるのかも分らない。
窪塚はちょっと世間離れしているキャラクターだからまあいい。
池松には家族がいるが、
その家族は典型的な奥さんと子どもで、
彼個人のここにしかないエピソードはひとつもなかった。
森七菜も、「ダイヤモンドプリンセス号の船員」というキャラクターにすぎず、
彼女のプライベートの話は一切なかった。

だから、人間の奥底に入っていない、
というのがとても気になった。
彼らは仕事の意義については熱く語る。
それはとても良く書けてて、
胸を熱くするのに十分だった。
だけど、公人ではなく私人として、
なぜそういう境地にいたったのか、
彼のほんとうの姿はこうで、
それでいて、公人たる生き方をしている、
のような、そういう内面がひとつも描かれていないのが気になったんだよね。

もう医者やめようかな、って思うことだってあったはずだし、
福島で医者の無力さを分かったから、
政治のほうでなんとかする、なんて選択肢だってあったはずだろうに。
それでも家に帰ったら、普通の父、でもいいんだけど、
それでもまだ彼の「独特の話」にはならないと思う。

つまり、
映画に刑事役や医者役などはない。
あったら、それは脇役、端役なんだよ。
主役じゃない。
主役はもっと内面まで踏み込んで、
単なる概念やキャラクターを超えて、
「彼独特のストーリー」を見たいはずなんだよね。

仮に映画業界の話になったとしようか。
たとえばなぜ彼は監督になったのか、
なぜ彼はプロデューサーになったのか、
なんてことは、彼のプライベートな人生ととても関係あることだと思う。

よく仕事をするカメラマンがいるんだけど、
彼は実は実家が写真館なんだよね。
だからカメラがめちゃくちゃ好きで、
撮影部の仲間といつもカメラの話をしている。
そういうプライベートが見えるから、
彼に任せても大丈夫だって思える。
どんなに失敗しても、いい絵のために頑張ってくれると思う。
その写真館は親父の体力の衰えとともに閉めるそうだ。
でも親父さんは息子がカメラマンになってくれて、
とてもうれしいんじゃないだろうかと思うんだよな。

そういうちょっとした話が、
小栗にも、池松にも、窪塚にも、松坂にも、森にも、
全然なかったのが、
「彼らは概念である」と思ってしまう原因かな。

公人としては信頼できるかもしれないが、
私人としてはどうなんだろう。
公人としては信頼できないが、私人として信頼できてもいいと思う。
私人としては信頼できなくても、公人として信用できてもいいと思う。

でもみんな、「その役割を全うする公人としての概念」
になってるのがとても気になった。

もしこれが長期シリーズならば、
そういう内面のストーリーもあったかもしれない。
そこが欲しかったんだよね。
どういう私人として、この困難にあたったのか、
が知りたい。

唯一私人としてオリジナルだったのは、
アメリカ人夫婦の奥さんの話で、
「私が旅行に誘った」という負い目なんだよね。
そこがとてもよくて、「誘わなければ良かった」って、
彼女はずっと後悔していた。
その、プライベートこそが映画におけるドラマなんじゃないかと思う。

みんな過去を話せ、ということではない。
今現在の話でもいい。
こういうときにこういう判断を、私人として取ったから、
この人はいい、みたいなことでもいい。
松坂の役はそうだった。
最初は四角四面の役人としてきたけれど、
色々な手を使う、柔軟性のある人だった。
検疫官の責任を私は取りたくない、というのと対照的だったのもよかった。
そういう私人の部分が見えるのが、
仕事ものの一番おもしろいところだと思うんだよね。

たとえば飯を必ず2人前食う、
というのでもプライベートは出る。
2人前食うのは食えなくなる手術が多いから、みたいなことで、
普段の彼の感じが見えればそれでいいと思う。
丁寧で誠実な対応をしている森七菜の胸に、
ジャニーズのペンが刺さっていても、
いいと思うんだよね。

そういう、
なんか短編というか、CMというか、
通り一遍のキャラクターを見させられているのではなくて、
その人そのものに入りたかったところ。

群像劇だから無理、は通じないと思う。
それでもやるのが映画だと思うね。
ちょっとキャラクター数が多かったかもしれない。
糖尿病のお母さんと息子は、
「ただ状況に反応しているだけ」になってしまっているのが、
あまりおもしろくないよね。
ずっとtwitterで発信し続けるとか、
そういう役回りにもできたはず。
船のおもちゃしかエピソードがないのがねえ。

船長が最後に降りた、
といういい話のわりには、
船長は最後まででて来ないよなあ。
アメリカ映画だと、そこが準主役になるだろうな。

実際に感染専門医の六条が、
船に乗り込んで、2時間で追い出されるまでを描いてもよかったのではないか。
窪塚と衝突したんでしょ、多分。
外側だけをなめていると、描かずに事後から描きがちよね。

「実話そのもの」を僕らは期待しているわけではない。
実際にあったことをうまくフィルターに濾して、
「危機にあたって人間たちの本質があぶりだされたもの」
を見たいんだ。
「ほんとうにはなかったかもしれないが、
これは人間の本質である」
を見たいんだ。
これは再現ドラマではなくて、フィクションだってわかっているのだから。
だとしたら、
CMや短編のように、
「医師A」ではなくて、結城(小栗の役名)という個人の医者が、
どうDMATを率いるのか、
どういうもめごとがあって、それを収めて、
なんとかしていくのか、
というのが見たいものになるはずだ。

窪塚は「口は悪いがきちんとやることをやる、有能な懐刀」をうまく演じていたが、
彼自身のプライベートはもう少し見たかったね。
福島であったことを、
説明ではなくて、人間のドラマとしてみたかったところだ。

池松の家族の話も、
通り一遍の話ではなくて、「あったなあ」というものでもなくて、
もっとオリジナルの「恐れた群衆がやりがちだけど、
ここの映画でしか見れない人間の本質」まで、
行きたかったところだ。
それに対して、奥さんが「大丈夫だったよ」と気丈にいうと、
我々は感動すると思う。
なんかCMっぽいんだよ。あの場面。
よくある家庭の姿、よくある奥さんと旦那、よくある娘、
よくあるハウススタジオ、
になってて、全然響かなかったね。
あれがラストシーンになるには、
あまりにも概念すぎる。
唯一、マスクの跡だけが真実で、
あの家庭全部嘘なんじゃないかと思えるくらいには。
(もっともCM出身の関根光才がアサインされている理由は、
その嘘くささが狙いなのかもしれない。
つまりCMのような、存在しない幸福の概念こそが日常である、
ということかもしれない)


小栗、窪塚はとくに、
そういう概念的なキャラクターになりがちなのを、
芝居でかわしている部分が多かった。
セリフは概念的だが、
言い方に人生をにじませる的な芝居の方法論を取っていた。
シナリオ側にもっとそんなのがあればなー、
と思いながら見ていた。

医者は公人としては概念だが、
映画では私人であるべきだと思う。
むしろ、私人と公人の間で引き裂かれるべきだ。
役人、船員、乗客、マスコミが、
みんな公人としての行動やセリフばかりなのが、
映画だったか?
という疑問の原因なのではないだろうか。

つまり、逆に捉えると、
私人がどう公人としてやっていくのか、
ということが映画かもしれない。
「英国王のスピーチ」は、そういう映画だったね。
そこまで立てろとは言わない。
役柄が違うからだ。
市井の民草である医者を、そういう泥臭い存在として、
描いてほしかったなあ。

緊張と緩和が上手だっただけに、
技術が優れているのに、芯がないものに見えた。
posted by おおおかとしひこ at 14:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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