映画は視聴覚メディアである。
だが我々は五感で生きている。
今日東京は(全国も)大雪だ。
僕は朝からキーボードイベントのために大雪の中駅へ向かい、
今エキナカで一息ついているのだが、
我々は「うわー、大雪だー」というのを、
視聴覚だけでない、別の感覚でも得ているよな、
ということに気づいたので記録しておく。
雪は映画では絵と音(ほぼ無音だけど)で示すしかない。
しかし、それだけでは表現できない感覚がある。
その、どの要素で我々は「うわー、大雪だー」と思うのか、
という話。
傘に降る雪の、ぴちぴちという音。
肌に感じる風と冷気。
傘の柄の冷たさ。
ずっと持っているとしびれて感覚のなくなって来る手。
頬にあたる雪たち。
黒いコートの前面についていく白い雪。
足を踏みしめるぎゅ、ぎゅという音、その柔らかい感触。
靴濡れてんなー、という感覚。
アスファルトの露出しているところをなるべく歩こうという判断。
人が踏みしめた雪の足跡は凍りがちだから、
あの上に下手に足をのせると滑ってひっくり返りそうだぞという予感。
ポケットに入れたカイロの熱。
白い息が風に流されていく感じ。
足の甲の部分にも雪が積もっていくんだなー、という感覚。
指が痛くなってくるので、傘を持つ手を持ち替えないと、という判断。
自分の呼吸や足音や傘に積もる音以外にない無音の空間。
傘を持たずに頭から雪をかぶってはしゃいでいるカップル。
犬の足跡。
雪を通すと色が全然変わって見えるんだなあという信号。
いつもの公園が雪化粧している感じ。
せっかく咲き始めた梅が雪に埋もれてて、
雪梅っていうよねこういうの、という和歌か演歌の思い出し。
こういう時はつらいときでも笑顔で咲くんや、みたいな大阪人情。
秒速5センチメートルという感覚。
雪って肉眼で見ると3Dだよなーという感覚。
雪が自分に向かってくる感覚。
風向きが変わり、雪が巻くような感覚。
スマホを取り出してこれからの天気を見ようとするんだけど、
あまりにも冷たくて、駅についてからにしようという判断。
触覚はあまりにも豊かに世界を伝えて来る。
記憶の思い出しもだ。
判断、というのを通じて、人は世界を認識しようとしている。
こんなものは、視覚と聴覚だけでは表現できない。
小説では、言葉にできるものならば表現できる。
雪は無音になる、ということで、1ページ白紙をつくったっていいかもね。
ずーっと白紙があって、真ん中に「死体」と書いてあっても、なかなか絵になるか。
「この」感覚を、どうやったら視聴覚である映画で伝えられるか?
は、ある種のトレーニングになるぞ。
さあ今から外へ出よう。
視覚と聴覚と、その他を研ぎ澄ませて、
あなたならこの雪をどう脚本に落とすかを考えよう。
ひとつテクニックがあるとしたら、
「思い出すこと」かな。
同じ経験を持つ人、似たような経験を持つ人が、
「あー、それそれあったわ」と思い出せるようなものがあると、
視覚と聴覚を超えられる。
雪梅を見て、演歌や大阪人情を思い出す感じは、
たとえばそれに近いね。
対比も行けるね。
傘をさしていないカップルとか、
逆に白い息を吐いて元気なシベリアンハスキーとか、
雪の中でカップヌードルを食っているやつとか。
誰かが話す話が聞こえてきてもよい。
「ラーメン食べたいー」「味噌ラーメンだよなこういう時は」
なんて会話だけで、
視覚と聴覚以上のものが我々の中に入って来るだろう。
感覚を研ぎ澄ませよう。
視覚と聴覚以外の、何が我々をそう感じさせるか?
を観察しにいこう。
2026年02月08日
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