いわゆる主人公主人公した、主人公にしてはならない。
それは、平凡だからだ。
(例えばショーンコネリー以外のジェームスボンドに人間的魅力がないのは、
主人公主人公した、テンプレ主人公だからだ)
少年漫画のような、ジャンプ漫画のような、
主人公補正の効いている、
素直でちょっと弱気な正義の体現者である、必要はない。
映画は漫画ではない。
もっと生きた人間を描く。
(青年漫画のほうがまだ主人公にバラエティーがあるというものだ)
特殊能力は必要ない。主人公補正も必要ない。
ただの人間が、事件に出会うだけでよい。
そして、無個性の人間などいない。
描く価値のある、人間的魅力のある人間こそが、
主人公たるべきだ。
その個性の中に「主人公という個性」は必要ない。
「主人公という個性」は、
とくにジャンプやゲームにおいて顕著だ。
能力に偏りがない標準型で、一番応用が効き、
成長度があり、真の最強設定で、
平均的な倫理観をもつ。
それは、人間を描く映画という芸術にとって、不要の要素である。
ゲームやラノベや漫画から、映画に興味をもち、
それを書こうとするのはよくある。
まずはその少年漫画的主人公観を捨てるところから、はじめられたい。
誰かをモデルにする方法論は、
実写という考え方を身につけるのに有効だ。
二次絵やキャラではない、
この世界にいる受肉した、
嫌な面も醜い面もある、勝手な考えを持つ、いい面もある、
汗が臭ければ血も流し、抜け毛もあれば髭も剃る、
作者と個性の異なる(例えば星座を変えるなどはいい方法だ)、
一人の他人として、
造型してゆくのである。
同棲やルームシェアや結婚の経験があれば分かるかも知れないが、
他人と暮らす、あの「他人」の感覚だ。
いずれは、誰か他人である役者が演ずるものだ。
その肉体に降りる魂のリアリティーをつくるのだ。
ある種の肉体的制限や付加事項は、
その役者の肉体に依存する。
その人間的魅力を、一から作り出すのが、
主人公の描像というものだ。
世の中に「主人公という個性」を持った他人はいない。
憧れる他人はいる。
同感できたり共感できる他人はいる。
好きになるが、あの部分は気にくわない他人はいる。
強烈に個性的だが、それは人前だけの人もいる。
内面に闇を抱えている人もいる。
そんな他人像から、物語の当事者になる人間を選ぶのである。
風魔の小次郎の実写化の困難であり、
成功要因でもあったのは、主人公小次郎を、
漫画的主人公にしながら、人間としても描いたことだ。
そのバランス、両輪が評価されているのだ。
どのように漫画的主人公を人間にしたかは、監督メモに詳しい。
ここでは、漫画的主人公と人間は違うという意識が徹底されている。
個性溢れる脇役に囲まれながらも、何だかんだ言って小次郎が一番魅力的なのだ。
漫画では不可能なそれは、実写で何故実現出来ているのか。
役者の技能に頼っていないことは確かだ。
脚本の段階で既にそのように書いてあるからだ。
(実はあの作品において、完全に人間なのは、小次郎と壬生だけだ。
半分人間なのは、姫子、蘭子、竜魔、劉鵬、武蔵、絵里奈、陽炎、夜叉姫である。
あとは漫画か役者の技能を使っている)
2014年05月01日
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