2014年05月01日

主人公論、つづき

いわゆる主人公主人公した、主人公にしてはならない。
それは、平凡だからだ。
(例えばショーンコネリー以外のジェームスボンドに人間的魅力がないのは、
主人公主人公した、テンプレ主人公だからだ)


少年漫画のような、ジャンプ漫画のような、
主人公補正の効いている、
素直でちょっと弱気な正義の体現者である、必要はない。

映画は漫画ではない。
もっと生きた人間を描く。
(青年漫画のほうがまだ主人公にバラエティーがあるというものだ)

特殊能力は必要ない。主人公補正も必要ない。

ただの人間が、事件に出会うだけでよい。
そして、無個性の人間などいない。
描く価値のある、人間的魅力のある人間こそが、
主人公たるべきだ。
その個性の中に「主人公という個性」は必要ない。

「主人公という個性」は、
とくにジャンプやゲームにおいて顕著だ。
能力に偏りがない標準型で、一番応用が効き、
成長度があり、真の最強設定で、
平均的な倫理観をもつ。

それは、人間を描く映画という芸術にとって、不要の要素である。
ゲームやラノベや漫画から、映画に興味をもち、
それを書こうとするのはよくある。
まずはその少年漫画的主人公観を捨てるところから、はじめられたい。

誰かをモデルにする方法論は、
実写という考え方を身につけるのに有効だ。
二次絵やキャラではない、
この世界にいる受肉した、
嫌な面も醜い面もある、勝手な考えを持つ、いい面もある、
汗が臭ければ血も流し、抜け毛もあれば髭も剃る、
作者と個性の異なる(例えば星座を変えるなどはいい方法だ)、
一人の他人として、
造型してゆくのである。

同棲やルームシェアや結婚の経験があれば分かるかも知れないが、
他人と暮らす、あの「他人」の感覚だ。

いずれは、誰か他人である役者が演ずるものだ。
その肉体に降りる魂のリアリティーをつくるのだ。
ある種の肉体的制限や付加事項は、
その役者の肉体に依存する。

その人間的魅力を、一から作り出すのが、
主人公の描像というものだ。
世の中に「主人公という個性」を持った他人はいない。
憧れる他人はいる。
同感できたり共感できる他人はいる。
好きになるが、あの部分は気にくわない他人はいる。
強烈に個性的だが、それは人前だけの人もいる。
内面に闇を抱えている人もいる。
そんな他人像から、物語の当事者になる人間を選ぶのである。



風魔の小次郎の実写化の困難であり、
成功要因でもあったのは、主人公小次郎を、
漫画的主人公にしながら、人間としても描いたことだ。
そのバランス、両輪が評価されているのだ。
どのように漫画的主人公を人間にしたかは、監督メモに詳しい。
ここでは、漫画的主人公と人間は違うという意識が徹底されている。
個性溢れる脇役に囲まれながらも、何だかんだ言って小次郎が一番魅力的なのだ。
漫画では不可能なそれは、実写で何故実現出来ているのか。
役者の技能に頼っていないことは確かだ。
脚本の段階で既にそのように書いてあるからだ。
(実はあの作品において、完全に人間なのは、小次郎と壬生だけだ。
半分人間なのは、姫子、蘭子、竜魔、劉鵬、武蔵、絵里奈、陽炎、夜叉姫である。
あとは漫画か役者の技能を使っている)
posted by おおおかとしひこ at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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