僕はハリウッドやヨーロッパの物語論に、
ずっと馴染めない単語がある。
「障害」だ。
よく西洋人は、
自然を敵とみなし、それを制御することで自然を開拓してきたと言われる。
数々現れる困難、たとえば大型獣や、沼地や、疫病。
仲間割れや奴隷の脱走や原住民との戦争。
それらの障害を乗り越えて、征服すること。
彼らのイメージには、
人生とは、人間というのはそのようなものだ、
という考え方があるような気がする。
だから彼らにとっての物語論は、
障害物競争である。
ラッセル車のように、数々の困難をはねのけて、
自分の目指すゴールへたどり着くようなもの。
アメフトがアメリカ人に人気なのもよく分かる。
彼らにとっての、人生とは、人間とは、
という感覚を端的に示したスポーツなのだ。
シド・フィールドは4つの障害だというし、
ブレイク・シュナイダーは、
お楽しみポイントや、かりそめの勝利や、迫り来る敵や死の予感、
などのように言う。
人間は、目的をもち、障害を越えることがストーリーなのだと。
しかし、毎日肉食ってるような、
こんなハイカロリーな人種では、我々はない。
それがストーリーだ、と断言することに、
日本人である我々はとても違和感がある。
ハリウッド映画の油っこさに時折辟易し、
さっぱりした和食のようなストーリーだってストーリーだろうと。
ずっと以前から、そこに違和感を感じていた。
ハリウッドの物語論が全てではないだろうと。
一方、日本の物語論はなんだか抽象的で、
書く人の立場に立っていないのが多かった。
(小説の入門書というのがあるのを僕は知らなくて、
最近そういう名著があることを知る。
僕の興味は映画や漫画なので、そこが抜け落ちていたのだな)
名著と言われる新井一のシナリオの本は、
分析には役立つかも知れないが、実用には向かない。
彼のどや顔はよく見えるが、書くための蒙をひらいたり、
どうすればいいか分からないときの助けにはなってくれない。
結局役に立ったのは、
脚本論が盛んなハリウッドの翻訳や、
ヨーロッパの神話論だ。
だがいつも思うのだ。
人間はそんなにラッセル車のように、
アクティブで、アメリカンヒーローのようにいられるかと。
(勿論、結果的に英雄的であることで、新しい英雄の一員になることはある。
ロッキーやランボーは、そうやって新しいアメリカンヒーローになった)
個人的に闘う主人公はよくいる。
それが英雄的であることとは、いつも関係ないような気がしていたのだ。
結果的に英雄的であることとは、やぶさかではないのだが。
勿論、ヒーローになろうとしてヒーローになる話は、
それほど多くはない。
しかし、なんだかUSA万歳!みたいな流れしかないのだろうか、
と、ずっと疑問だったからだ。
例えばハリウッドの脚本論では、ガンダムやナウシカを上手く説明出来ない。
それが、ハリウッドの理想形に足りないからといって、
ストーリーとして不完全や未完成だとは、とても思えない。
だからハリウッドの脚本論は、
世界の全てのストーリーを説明し構築できる理論なのではなく、
ハリウッド映画的なストーリーの構築法なのだと、
薄々感じてはいた。
だから、ハリウッドの理論を利用することはあっても、
我々日本人は、独自の、ストーリーとは何か、
それはどうやったら書けるのか、
を構築すべきだとは考えていた。
残念ながら現状いいものはなくて、
多分みんな、それぞれを使い分けながら、
あとは名作の分析や、身に付いたものや、
自分の直感に従って書いているのだと思う。
異物論(仮)を書いてみたのも、そう考えると、
ハリウッドの脚本論を脱却出来るのではないかと思ったからだ。
さて、
前の記事に書いたことは、
さらに別のバージョンの、
日本人に分かりやすい脚本論を示唆しているのではないかと思う。
主人公は世界に振り回される。
主人公は世界を制御しようとする。
この二つの相克が、ストーリーだと考えると分かりやすいような気がした。
世界とは、「人であったり組織であったり事件だったり、その世界にあるもの」をさす。
日本人は津波や地震など、
自然はしょうがないものとある程度諦めている。
また、変に作るよりも、自然の法則に従って生きることが何よりも大切だと、
無意識に思っている。
自然を改造したり征服したりする発想ではなく、
共生という考え方だ。それこそナウシカ的な。
もっと無意識に潜ると、
「人には、ベースとなる幸せな世界がある」と考える。
それは自然と調和し、人々も幸せな理想郷だ。
天国でもいいし、昔のよかった時代でもいいし、
今の俺のそこそこの生活でも構わない。
それが、自然のような人為的でない、何かに乱されることが、
ストーリーのはじまりで、
それに押し流されたり振り回されたりするのに対して、
主人公は世界を制御し、
幸せな自分の生活を取り戻そうとすることが、
ストーリーである、
と理解するとよいのではないか。
というのがこの論の骨子である。
異物論に構造は似ているが、
異物論ははじまりのことしか書いてなくて、
途中のことを書いてなかった。
なので、より強力な理論だと思っている。
名前をつけて、この論をしばらく考えてみようと思う。
「世界制御論」と、とりあえず命名してみる。
相変わらずネーミングセンスがないなあ。
2015年03月23日
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