「美少女の完璧スタイル」
「みんなで作り上げた一大イベント!」
「あの動物にこんな可愛い面が?」
「スゴ技特集」
「驚きの合成なし映像トリック」
「お得情報」
「新曲披露」
「賞をとったほどの凄い芸」
これらは、全て見世物のことである。
僕の言う、ガワのことである。
見世物には意味がない。
それを見るためにみんな集まるが、
終わったら帰っていく。
その時間は夢中になるが、
その客は確実に退いていく。
勿論、リピーターもいる。
今、リピーターの多いひとが人気タレントと呼ばれる。
しかし、見世物には意味がない。
人気美少女は眺めて面白いが、
それが俺の人生にもたらす意味はない。
(活力はくれる)
見たいものだが見たら終わりである。リピートすることはある。
しかし、物語は見世物だけではない。
勿論見世物要素はある。
そうでないと見てくれない、地味なものになるから。
しかし物語の本来の芯は、意味にある。
何故この物語が存在するのか、という意味が。
それを、テーマと言う。
「見たもの」をモチーフといい、
「見たものが意味すること」をテーマという。
見世物はモチーフで、その奥の意味がテーマだ。
人は、見世物を見ただけなら、ああ良かったと中身を忘れる。
印象という記憶に圧縮される。
しかし、意味のある物語を見たとき、
印象とともに、これはどういう意味だったかと、
意味とともに記憶する。
風の谷のナウシカは、
蟲たちのうごめいたり、メーヴェの浮遊感を楽しむ見世物であったと同時に、
人と自然の関係を問い直したり、
愚かな人々の揶揄を込めた、物語としての意味があった。
だから傑作だ。
ネット時代になって、情報がますます点になる。
線のものは歓迎されない。点のほうが楽だから。
点だけを追っていくと、意味が解体される。
見世物ばかりになるからだ。
見世物を責めているのではない。
見世物は楽しいし必要だ。
見世物の跳梁跋扈に対して、意味のあるものが追いやられていることに、
警鐘を鳴らしたいのだ。
それは何の意味があんの?
僕は詰まらない話を聞いたとき、必ず言う嫌なおじさんになっている。
意味なんてない、ただ楽しいことを共有したかったからだ、
と割り切れる人も減った。
それは、意味のある物語を見た経験が少ないからではないか、
と最近思うようになってきた。
意味のある物語、なんて、本来二重言葉だ。
それが、意味のある物語と意味のない物語(形式の見世物)に分化して、
前者が難しくて扱いづらいものと思われている、
その現状が問題だ。
意味のある物語をたくさん見て、
笑ったり泣いたり、人生はこうあるべきだと影響を受けたり、
今の人はそういう経験が減っているのだろうか。
それとも僕が脚本とは何かを知りたくて、
沢山沢山名作を見すぎて、
意味のある物語の経験値が違いすぎるのだろうか。
なんだか両方の結果のような気がしている。
僕のオールタイムベストはもう書いた。
それは自分の人生に影響を受けた映画の影響度順でもある。
全ての映画を見ることは出来ないし、
僕も名作全てを見たわけではない。
いつか俺傑作選を作ろうと思って、まだ着手していないが、
そのうちやるかも知れない。
なんかね、ネットは見世物は沢山転がってるんだけど、
意味のある物語は、なかなかないんだよね。
それは有料の世界になってて、
そのリスクを払うには、それをちゃんとした解説がなさすぎるんだよね。
ガチャみたいに、小銭をただ巻き上げられてる感覚。
本当に意味のある物語なら、いくらでも払うのに。
あなたが書くのは、単なる見世物か。
何か意味のある物語か。
その意味は、誰にとっての価値になるのか。
そんなことを、引いた目線で見るのはとても良いことだ。
文才があれば、
それをキャッチコピーにしてみるのも手だ。
「闇にかざすのは、炎だ。」(てんぐ探偵)
「私ね、きみが大人になる日を見に来たの。」(いけちゃんとぼく、最近書いたコピー)
は、なかなか気に入っている。
それが見世物であるように書くのが、いいコピーだと思う。
見世物の「内容」が、テーマになるのだから。
風魔のコピーを書いたことがなかった。
「アイツは、まだ私の心に風を吹かせている。」かな。
風魔って、最初から何だか悲しみを含んでいるんだよねえ。
2015年05月12日
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