2015年05月12日

全ては「あるある」である

バナナで滑って転んだ人を、
僕はリアルに見たことがない。
勿論僕自身もバナナで転んだこともない。
しかしこれはコントの定番である。
(初出は何か昔調べようとしたが挫折。チャップリンかキートンか)

昔は道にバナナがしょっちゅう落ちてたのだろうか。
昔は何かで滑ってよく転んだのだろうか。

違うと思う。
ここに、表現の奥義が隠されている。


我々はバナナで転んだ経験をしたことがない。

にも関わらず、
「誰かが歩いていて、
その前に食べ終わったバナナの皮を誰かが捨てて、
それに気づかず壮大にすっころぶ」
という映像を見て、
それを理解して笑う。

ここが重要だ。

普通のあるあるなら、
リアルに体験したことの共通体験を語るものである。
古い例だが、嘉門達夫はそれでブームを起こした。
「学校で机くっつけたときに、ここ境界線、てやったら、
空中ならええやろ、と入ってくる」
なんてネタの宝庫だ。
あるある探検隊から今時のお笑いまで、
あるあるネタは鉄板ネタのひとつだ。

しかし、バナナはその意味のあるあるではない。

にも関わらず、我々は笑える。

それは、
バナナの皮はぬるぬるしてるだろうな、
という経験から来る推測と、
後ろのことを見ない他人の無邪気な悪意に、
普段我々が晒されていらっとしているからである。
この二つの経験があれば、
バナナの場面を理解し、笑うことが出来る。

こういうときは、思い切り大袈裟に転ぶといい。
腹立つわ〜と言うほど。

創作とはこういうことだ。



ただのあるあるを描写することが創作ではない。
それはジャーナリズムに過ぎない。

創作とは、刺身を並べることではない。
他人の無邪気な悪意と、バナナのぬるぬるという二つの経験を組み合わせて、
バナナの場面を新しく作ることを言う。

つまり、我々は、経験したことしか理解できない。
しかし、経験から類推する能力はある。

誰もバナナで転んだ人がいなくても、
二つの要素の経験から、
その腹立つ面白さが「理解」出来るのだ。



逆に、経験していないことを元にした創作を見ても、
よく分からない。
物語の中での、妻の死の悲しみが理解できるのは、
ペットの死や、恋人との別れなどの、別れを経験しているからだ。
そこから類推するのだ。
(その類推が、共感力とか感情移入とか、想像力とかだろう)
だから未熟な人は、物語を理解できないかも知れない。
人生を生きたことのないニートに、
人生を描いた物語は理解できない。
ニートが理解できるのは、ニート周りの出来事だ。

我々が外国映画を理解できるのは、
同じ人間として類推出来るからだ。
(キリスト教文化をベースにされると、キツイよね。
神と人間の関係とか、一般論なら行けるけど、
「サイン」の信仰の話はいまいち類推出来ない)


つまり、バナナが教えてくれることは、
創作とは、
面白い何かを並べるジャーナリズムではないこと、
既に知っている経験と経験をベースに組み合わせて、
類推可能な新しい何かをつくることだ。

それをあるあるではなく、カギカッコつきの「あるある」で示そう。

全ては「あるある」だ。

「風魔」では忍者も聖剣も見たことがないが、
絆や暖かい風のこと、認められない悔しさ故の暴走は「あるある」だ。
「てんぐ探偵」では、妖怪など見たことがないが、
人間の心の暗部やそれを光の側へ心が晴れることは、
「あるある」だ。

創作とは、「あるある」を作り出し、
それを線にすることであり、
それに画期的ビジュアルを被せることである。
posted by おおおかとしひこ at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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