バナナで滑って転んだ人を、
僕はリアルに見たことがない。
勿論僕自身もバナナで転んだこともない。
しかしこれはコントの定番である。
(初出は何か昔調べようとしたが挫折。チャップリンかキートンか)
昔は道にバナナがしょっちゅう落ちてたのだろうか。
昔は何かで滑ってよく転んだのだろうか。
違うと思う。
ここに、表現の奥義が隠されている。
我々はバナナで転んだ経験をしたことがない。
にも関わらず、
「誰かが歩いていて、
その前に食べ終わったバナナの皮を誰かが捨てて、
それに気づかず壮大にすっころぶ」
という映像を見て、
それを理解して笑う。
ここが重要だ。
普通のあるあるなら、
リアルに体験したことの共通体験を語るものである。
古い例だが、嘉門達夫はそれでブームを起こした。
「学校で机くっつけたときに、ここ境界線、てやったら、
空中ならええやろ、と入ってくる」
なんてネタの宝庫だ。
あるある探検隊から今時のお笑いまで、
あるあるネタは鉄板ネタのひとつだ。
しかし、バナナはその意味のあるあるではない。
にも関わらず、我々は笑える。
それは、
バナナの皮はぬるぬるしてるだろうな、
という経験から来る推測と、
後ろのことを見ない他人の無邪気な悪意に、
普段我々が晒されていらっとしているからである。
この二つの経験があれば、
バナナの場面を理解し、笑うことが出来る。
こういうときは、思い切り大袈裟に転ぶといい。
腹立つわ〜と言うほど。
創作とはこういうことだ。
ただのあるあるを描写することが創作ではない。
それはジャーナリズムに過ぎない。
創作とは、刺身を並べることではない。
他人の無邪気な悪意と、バナナのぬるぬるという二つの経験を組み合わせて、
バナナの場面を新しく作ることを言う。
つまり、我々は、経験したことしか理解できない。
しかし、経験から類推する能力はある。
誰もバナナで転んだ人がいなくても、
二つの要素の経験から、
その腹立つ面白さが「理解」出来るのだ。
逆に、経験していないことを元にした創作を見ても、
よく分からない。
物語の中での、妻の死の悲しみが理解できるのは、
ペットの死や、恋人との別れなどの、別れを経験しているからだ。
そこから類推するのだ。
(その類推が、共感力とか感情移入とか、想像力とかだろう)
だから未熟な人は、物語を理解できないかも知れない。
人生を生きたことのないニートに、
人生を描いた物語は理解できない。
ニートが理解できるのは、ニート周りの出来事だ。
我々が外国映画を理解できるのは、
同じ人間として類推出来るからだ。
(キリスト教文化をベースにされると、キツイよね。
神と人間の関係とか、一般論なら行けるけど、
「サイン」の信仰の話はいまいち類推出来ない)
つまり、バナナが教えてくれることは、
創作とは、
面白い何かを並べるジャーナリズムではないこと、
既に知っている経験と経験をベースに組み合わせて、
類推可能な新しい何かをつくることだ。
それをあるあるではなく、カギカッコつきの「あるある」で示そう。
全ては「あるある」だ。
「風魔」では忍者も聖剣も見たことがないが、
絆や暖かい風のこと、認められない悔しさ故の暴走は「あるある」だ。
「てんぐ探偵」では、妖怪など見たことがないが、
人間の心の暗部やそれを光の側へ心が晴れることは、
「あるある」だ。
創作とは、「あるある」を作り出し、
それを線にすることであり、
それに画期的ビジュアルを被せることである。
2015年05月12日
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