2015年09月09日

小説と映画の違い:楽譜かどうか

今小説「てんぐ探偵」再編集版を作っているのだが、
初期の頃と違い、最後の方では随分上達したなあ、
という感慨がある。
最後の方は小説的になっていて、
初期の頃は脚本的な気がする。

その差は何だろうと思い、ようやく言葉になった。

楽譜かどうかの違いである。


当然のことだが、
脚本に書かれたことは、リアルタイムのお芝居で演じられる。
1ページ1分のフォーマットで書かれる訳だから、
極端にいうと、
20行で1分なので、
1行が3秒にあたるわけだ。
(話を簡単にするため極論している)

脚本に、「シンイチ、ショックのため崩れ落ちる」
とト書きがあれば、約3秒でこの芝居は演じられ、
もたもたした芝居ならば編集で3秒に切られ、
早い芝居ならば、その後の間を生かして3秒に伸ばされる、
ということを意味している。(極論です)

脚本に、
「シンイチ、ショックのため崩れ落ちる。
しばらく立ち上がれない」
ならば、崩れ落ちてしばらくそのままで、6秒に編集されるということだ。
(極論です)
たとえば、崩れ落ちるヒキとそのヨリを撮って、
2カットで編集するだろう。勿論ワンカットでもいい。

さらに。
「シンイチ、ショックのため崩れ落ちる。
その衝撃の大きさは、これまでで最大だ。
汗が落ち、持っているものを落とし、ゆっくりと膝をつく。
しばらく立ち上がれない」
とあるなら、
12秒のカット割になるということだ。(極論です)

実際、立ってる状態からただ膝をつくだけの芝居では12秒も持たない。
そこで、監督がカットを割ってその間(すなわち、ショックの大きさ)を表現する。
それは監督のセンス次第だけど、
たとえば、
「ショックを受けるシンイチのアップ」
「崩れ落ちる全身、スローモーション」
「地面に落ちる汗、スローモーション」
「持ってるものが地面に落ちる、スローモーション」
「地面につく膝、スローモーション」
「全身ヒキ」
などに割るだろう。音楽を鳴らすかも知れない。

実際のショックを受け、膝をつく秒数(3秒としよう)よりも、
引き伸ばすことで、ショックの大きさを表現するのである。


このように、脚本では、
実際の秒数に比例した文字数で書かれるのが常識だ。
ト書きは簡潔に書け、という初心者向きの教えは、
ダラダラ書いたらそこで秒数を食って、
テンポがたるくなる、
ということを戒めているのである。

だから、ベテランほど、
的確な秒数で的確な理解が出来るように、脚本を書く。

理解のスピードと文章のスピードと実際の秒数が、
一致するように書くものである。

僕は脚本が楽譜だというのは、そういう意味だ。
極論すれば、1行3秒のメトロノームで、
脚本は書くものである。
(あくまで極論です)


ところが、小説はそうではない。

僕は初期の頃、脚本の癖で、
なるべく文字数が起きていることのテンポを表現するように、
書いていた。
リアルタイムで起こる楽譜のようにだ。

小説はそうではない。
そのとき描写するべきことは徹底的に書き込んでいいし、
別の時間軸のことを地の文に入れてもいいし、
客観的な様子と主観的なことを混ぜられる。

たとえば。

シンイチはショックのあまり、持っているものを落として膝をついた。
地面のコンクリは固く、冷たく、シンイチを拒否するようであった。
このショックの大きさは、かつて転校生のユーレイが嘘をついていたことと、
同様であった。否、それよりも大きいのかも知れない。
全身の汗が地面に自由落下するまでの僅かな時間、
シンイチの頭のなかに、これまでのことが走馬灯のように浮かんだ。

のように書いてもよい。
映像表現における、スローモーション以上のことが、
小説の地の文には可能なのだ。

(この機能を映像に持ち込もうとして、
へんてこなインサートを入れたり、シュールな表現でそこに到達しようとする、
表現主義やモンタージュ技法が60年代や70年代に模索されたが、
現代ではあまり考えられていない。
周りにあるものをコラージュする程度の、
リアリスティックな編集がモダンだ)


小説の映画化がなぜ困難か、
これだけの例でも理解できるだろう。
ためしに書いてみた、シンイチのショックの小説的表現は、
先に書いてみた、脚本的表現のどれにも対応しないからである。

だからといって、映像的に、
膝をつくスローモーションの間に、
ユーレイとの過去話やこれまでのことを、
フラッシュバックしていくべきか?
いやいや、それは映像表現としてはダサいよね。
ということで、
脚本には、
「シンイチ、ショックのため崩れ落ちる」と書くしかないのである。
つまり、ここの小説的表現を捨てて、
別のところで勝負するしかないのである。


小説は、楽譜にする必要はない。
むしろ、楽譜のように書かないことが小説ではないか?

引き伸ばすべきことを徹底的に引き伸ばして、
じっくりとそこを味わい、時間を止めて、
あるいは逆に、
どかんと省略する楽しみもあるのではないだろうか。

たとえばタッチの最終回、
決勝戦を描かなかった省略は、とても小説的だ。
これ、映画だったらありえないよ。
クライマックスの一番盛り上がる試合がないんだぜ?
(映画「いけちゃんとぼく」での、
ヨシオの成長を示し、これまでのいじめのストーリーライン全てがよい方向に転換する、
野球シーンを、トンデモプロデューサーが「いらないのでは?」
とか言ったとき、僕は気が狂ったのかと思った。
クライマックスなくすって、どういうことなのか、
いまだに理解が出来ない。きっとその人は、映画がよくわかってないのだろう)


勿論、映画表現にも、
時間的誇張や省略はある。
しかしスローモーションとカットの、
具体的な技法程度である。

小説の地の文は、楽譜ではなくなったとき、
小説の凄さを発揮するのだと、
僕は経験的に分かった。

だから、「てんぐ探偵」の最終回、
秋葉原ホコテンでの決戦は、映像が浮かびながらも、
とても小説的に書いたつもりだ。
特に炎が戻るところは、
映像では表現できない。
ドラマ化、映画化するときは、別の表現にするしかないよね。(笑)


僕が最初にそれに気づいたのは、
「爆音ギタリスト」のラストだ。
「世界は、変えようとする者だけが変えることができる。
真理のギターは、今までで一番大きな音を出した。」
は、脚本にはならない。
ギターの爆音がスピーカーの出せる一番大きな音量になって、
うるさいだけだろうからだ。
「ギターが音を出す」というカメラで撮れる楽譜の脚本に対し、
小説の地の文は、それ以上の表現を、
引き延ばしたり省略したりで表現できる。


だれや。
脚本書けたら小説も書けるとか言うアホは。
全然ちゃうやんけ!

逆に、小説が書けても脚本は書けるとは限らない。

両者は、(凡庸な結論だが)似て非なるものである。

僕的に表現すれば、
脚本は楽譜、
小説は楽譜以外に何を書くか(あるいは書かないか)だ。
posted by おおおかとしひこ at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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