今小説「てんぐ探偵」再編集版を作っているのだが、
初期の頃と違い、最後の方では随分上達したなあ、
という感慨がある。
最後の方は小説的になっていて、
初期の頃は脚本的な気がする。
その差は何だろうと思い、ようやく言葉になった。
楽譜かどうかの違いである。
当然のことだが、
脚本に書かれたことは、リアルタイムのお芝居で演じられる。
1ページ1分のフォーマットで書かれる訳だから、
極端にいうと、
20行で1分なので、
1行が3秒にあたるわけだ。
(話を簡単にするため極論している)
脚本に、「シンイチ、ショックのため崩れ落ちる」
とト書きがあれば、約3秒でこの芝居は演じられ、
もたもたした芝居ならば編集で3秒に切られ、
早い芝居ならば、その後の間を生かして3秒に伸ばされる、
ということを意味している。(極論です)
脚本に、
「シンイチ、ショックのため崩れ落ちる。
しばらく立ち上がれない」
ならば、崩れ落ちてしばらくそのままで、6秒に編集されるということだ。
(極論です)
たとえば、崩れ落ちるヒキとそのヨリを撮って、
2カットで編集するだろう。勿論ワンカットでもいい。
さらに。
「シンイチ、ショックのため崩れ落ちる。
その衝撃の大きさは、これまでで最大だ。
汗が落ち、持っているものを落とし、ゆっくりと膝をつく。
しばらく立ち上がれない」
とあるなら、
12秒のカット割になるということだ。(極論です)
実際、立ってる状態からただ膝をつくだけの芝居では12秒も持たない。
そこで、監督がカットを割ってその間(すなわち、ショックの大きさ)を表現する。
それは監督のセンス次第だけど、
たとえば、
「ショックを受けるシンイチのアップ」
「崩れ落ちる全身、スローモーション」
「地面に落ちる汗、スローモーション」
「持ってるものが地面に落ちる、スローモーション」
「地面につく膝、スローモーション」
「全身ヒキ」
などに割るだろう。音楽を鳴らすかも知れない。
実際のショックを受け、膝をつく秒数(3秒としよう)よりも、
引き伸ばすことで、ショックの大きさを表現するのである。
このように、脚本では、
実際の秒数に比例した文字数で書かれるのが常識だ。
ト書きは簡潔に書け、という初心者向きの教えは、
ダラダラ書いたらそこで秒数を食って、
テンポがたるくなる、
ということを戒めているのである。
だから、ベテランほど、
的確な秒数で的確な理解が出来るように、脚本を書く。
理解のスピードと文章のスピードと実際の秒数が、
一致するように書くものである。
僕は脚本が楽譜だというのは、そういう意味だ。
極論すれば、1行3秒のメトロノームで、
脚本は書くものである。
(あくまで極論です)
ところが、小説はそうではない。
僕は初期の頃、脚本の癖で、
なるべく文字数が起きていることのテンポを表現するように、
書いていた。
リアルタイムで起こる楽譜のようにだ。
小説はそうではない。
そのとき描写するべきことは徹底的に書き込んでいいし、
別の時間軸のことを地の文に入れてもいいし、
客観的な様子と主観的なことを混ぜられる。
たとえば。
シンイチはショックのあまり、持っているものを落として膝をついた。
地面のコンクリは固く、冷たく、シンイチを拒否するようであった。
このショックの大きさは、かつて転校生のユーレイが嘘をついていたことと、
同様であった。否、それよりも大きいのかも知れない。
全身の汗が地面に自由落下するまでの僅かな時間、
シンイチの頭のなかに、これまでのことが走馬灯のように浮かんだ。
のように書いてもよい。
映像表現における、スローモーション以上のことが、
小説の地の文には可能なのだ。
(この機能を映像に持ち込もうとして、
へんてこなインサートを入れたり、シュールな表現でそこに到達しようとする、
表現主義やモンタージュ技法が60年代や70年代に模索されたが、
現代ではあまり考えられていない。
周りにあるものをコラージュする程度の、
リアリスティックな編集がモダンだ)
小説の映画化がなぜ困難か、
これだけの例でも理解できるだろう。
ためしに書いてみた、シンイチのショックの小説的表現は、
先に書いてみた、脚本的表現のどれにも対応しないからである。
だからといって、映像的に、
膝をつくスローモーションの間に、
ユーレイとの過去話やこれまでのことを、
フラッシュバックしていくべきか?
いやいや、それは映像表現としてはダサいよね。
ということで、
脚本には、
「シンイチ、ショックのため崩れ落ちる」と書くしかないのである。
つまり、ここの小説的表現を捨てて、
別のところで勝負するしかないのである。
小説は、楽譜にする必要はない。
むしろ、楽譜のように書かないことが小説ではないか?
引き伸ばすべきことを徹底的に引き伸ばして、
じっくりとそこを味わい、時間を止めて、
あるいは逆に、
どかんと省略する楽しみもあるのではないだろうか。
たとえばタッチの最終回、
決勝戦を描かなかった省略は、とても小説的だ。
これ、映画だったらありえないよ。
クライマックスの一番盛り上がる試合がないんだぜ?
(映画「いけちゃんとぼく」での、
ヨシオの成長を示し、これまでのいじめのストーリーライン全てがよい方向に転換する、
野球シーンを、トンデモプロデューサーが「いらないのでは?」
とか言ったとき、僕は気が狂ったのかと思った。
クライマックスなくすって、どういうことなのか、
いまだに理解が出来ない。きっとその人は、映画がよくわかってないのだろう)
勿論、映画表現にも、
時間的誇張や省略はある。
しかしスローモーションとカットの、
具体的な技法程度である。
小説の地の文は、楽譜ではなくなったとき、
小説の凄さを発揮するのだと、
僕は経験的に分かった。
だから、「てんぐ探偵」の最終回、
秋葉原ホコテンでの決戦は、映像が浮かびながらも、
とても小説的に書いたつもりだ。
特に炎が戻るところは、
映像では表現できない。
ドラマ化、映画化するときは、別の表現にするしかないよね。(笑)
僕が最初にそれに気づいたのは、
「爆音ギタリスト」のラストだ。
「世界は、変えようとする者だけが変えることができる。
真理のギターは、今までで一番大きな音を出した。」
は、脚本にはならない。
ギターの爆音がスピーカーの出せる一番大きな音量になって、
うるさいだけだろうからだ。
「ギターが音を出す」というカメラで撮れる楽譜の脚本に対し、
小説の地の文は、それ以上の表現を、
引き延ばしたり省略したりで表現できる。
だれや。
脚本書けたら小説も書けるとか言うアホは。
全然ちゃうやんけ!
逆に、小説が書けても脚本は書けるとは限らない。
両者は、(凡庸な結論だが)似て非なるものである。
僕的に表現すれば、
脚本は楽譜、
小説は楽譜以外に何を書くか(あるいは書かないか)だ。
2015年09月09日
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