2015年09月12日

何かを何かで象徴すること

抽象的なことを言うとき、
抽象的に表現してはならない。

具体的なモノに例えたりするとよい。
何故なら、映画は目で見るメディアだからだ。
(恐らく小説ですら、
具体的に目で見えるもので、最終的に表現されるような気がする)

特にやるべきことは、
何か象徴的なものに、
抽象的な意味を託せるかどうかである。


またてんぐ探偵を例に出すが、
最終回近辺で、
シンイチの小烏の炎の力が失われ、
右手から炎が湧き出す表現がある。

炎は、
シンイチの自信、確信、揺るがぬ心、
正義心、理性、使命などの、全てを象徴している。
炎はシンイチ自身だと言ってもいいような、
怒涛展開だった。

これは、炎という具体的なモノによる、象徴表現である。
天狗の炎が失われて再び復活するという「絵」で、
シンイチの自信喪失と復活を表現している。

これが、絵による象徴表現だ。

抽象的な表現ならば、
分かりにくく、伝わりづらい、
ピンと来ない表現になるだろう。

以下、無理矢理書いてみる。


シンイチは全く自信が失われてしまった。
どうやっていいか分からず、真ん中の確信が失われてしまった。
不安だった。それまで一体どうしていたのか、分からなくなってしまった。
/
シンイチの自信が、彼の中心に戻ってきた。
不安が吹き飛び、今自分が何をなすべきか分かった。
彼は使命に生きることが彼自身なのだ。

などと抽象的に書くよりも、

シンイチがいくら構えても、小烏の炎が出ない。
何度振っても、ちびりとも出ない。
/
シンイチの右手から炎が上がり、
小烏の刃を伝って燃え上がった。
これまでシンイチは炎は剣から出るのだと思っていた。
そうではない。炎は、シンイチから出ていたのだ。

などと、具体的な表現にするほうが、
圧倒的に強い。



「アパートの鍵、貸します」で、
小道具による象徴表現を研究した。
(過去記事検索して下さい)

映画は、小道具で象徴表現をするのが得意なジャンルではないかな、と思う。



小道具でなくとも、象徴表現は可能だ。
人で象徴することも出来る。

「風魔」を例に出そう。
麗羅の死は、何の象徴か。
子供時代からの別れを象徴している。

幼馴染みの同期の親友、言葉がなくともわかり会える、
自分と相手の境目のない状態の友。
それは、子供時代の象徴だ。
守られて育つ、子供の象徴だ。
麗羅は保護されている。子供だからだ。
子供時代が死ぬこと、
自分でなく他人のために生きることを、
子供時代からのメッセージとしたことは、
主人公小次郎が、子供時代に別れを告げたことを象徴している。

大人の男としての象徴、風林火山が、
子供時代の喪失の直後に来るのは、
成長という痛みにとって、必然なのだ。

麗羅がBL的な関係であるのには、
僕はそのような象徴を込めたつもりだ。
商売上、麗羅を可愛くすることや、BL的にすることはオイシイ選択だ。
しかし、単なる商売上の要素にしてはならないという、
僕の使命感が、
喪失による成長の物語構造を、選択させたのである。

ただBL風味の仲良しで、ただ死ぬ悲劇のヒロインならば、
麗羅はここまで人々の心に残らない。
子供時代との訣別が象徴されているからこそ、
人は感動するのである。
何故麗羅が子供っぽいのか、の答えがこれだ。

人のために生きること。
それが風魔における、大人への意味だ。
それは主君と忍びという関係で、最初に象徴されている。

風魔はこのように、人によるいくつもの象徴表現を上手く使っている。
(例えば竜魔は父でメンター、劉鵬は母、壬生はシャドウ、
蘭子はヘラルド、陽炎はトリックスターなど)
まあ、具体的なモノが少ないからこその工夫か。
二本の聖剣と、血羽と霧ぐらいだよな、使えたモノは。

(僕が却下した伊藤氏のアイデアに、
風林火山が北条のじいさんの写真の裏からバリーンと出てくる、
というのがあった。ビジュアル的にはなかなかインパクトがあるが、
小次郎にとっての何の象徴表現にもなっていないと判断し、却下した)



何か抽象的なものを失う→何か具体的なモノが壊れる、なくす
何か抽象的なものを得る→何か具体的なモノを得る
何か抽象的なものが変化→何か具体的なモノが変色するとか変形する

などのように、具体的なモノ(または人)に象徴させると、
強い表現になると思う。
posted by おおおかとしひこ at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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