抽象的なことを言うとき、
抽象的に表現してはならない。
具体的なモノに例えたりするとよい。
何故なら、映画は目で見るメディアだからだ。
(恐らく小説ですら、
具体的に目で見えるもので、最終的に表現されるような気がする)
特にやるべきことは、
何か象徴的なものに、
抽象的な意味を託せるかどうかである。
またてんぐ探偵を例に出すが、
最終回近辺で、
シンイチの小烏の炎の力が失われ、
右手から炎が湧き出す表現がある。
炎は、
シンイチの自信、確信、揺るがぬ心、
正義心、理性、使命などの、全てを象徴している。
炎はシンイチ自身だと言ってもいいような、
怒涛展開だった。
これは、炎という具体的なモノによる、象徴表現である。
天狗の炎が失われて再び復活するという「絵」で、
シンイチの自信喪失と復活を表現している。
これが、絵による象徴表現だ。
抽象的な表現ならば、
分かりにくく、伝わりづらい、
ピンと来ない表現になるだろう。
以下、無理矢理書いてみる。
シンイチは全く自信が失われてしまった。
どうやっていいか分からず、真ん中の確信が失われてしまった。
不安だった。それまで一体どうしていたのか、分からなくなってしまった。
/
シンイチの自信が、彼の中心に戻ってきた。
不安が吹き飛び、今自分が何をなすべきか分かった。
彼は使命に生きることが彼自身なのだ。
などと抽象的に書くよりも、
シンイチがいくら構えても、小烏の炎が出ない。
何度振っても、ちびりとも出ない。
/
シンイチの右手から炎が上がり、
小烏の刃を伝って燃え上がった。
これまでシンイチは炎は剣から出るのだと思っていた。
そうではない。炎は、シンイチから出ていたのだ。
などと、具体的な表現にするほうが、
圧倒的に強い。
「アパートの鍵、貸します」で、
小道具による象徴表現を研究した。
(過去記事検索して下さい)
映画は、小道具で象徴表現をするのが得意なジャンルではないかな、と思う。
小道具でなくとも、象徴表現は可能だ。
人で象徴することも出来る。
「風魔」を例に出そう。
麗羅の死は、何の象徴か。
子供時代からの別れを象徴している。
幼馴染みの同期の親友、言葉がなくともわかり会える、
自分と相手の境目のない状態の友。
それは、子供時代の象徴だ。
守られて育つ、子供の象徴だ。
麗羅は保護されている。子供だからだ。
子供時代が死ぬこと、
自分でなく他人のために生きることを、
子供時代からのメッセージとしたことは、
主人公小次郎が、子供時代に別れを告げたことを象徴している。
大人の男としての象徴、風林火山が、
子供時代の喪失の直後に来るのは、
成長という痛みにとって、必然なのだ。
麗羅がBL的な関係であるのには、
僕はそのような象徴を込めたつもりだ。
商売上、麗羅を可愛くすることや、BL的にすることはオイシイ選択だ。
しかし、単なる商売上の要素にしてはならないという、
僕の使命感が、
喪失による成長の物語構造を、選択させたのである。
ただBL風味の仲良しで、ただ死ぬ悲劇のヒロインならば、
麗羅はここまで人々の心に残らない。
子供時代との訣別が象徴されているからこそ、
人は感動するのである。
何故麗羅が子供っぽいのか、の答えがこれだ。
人のために生きること。
それが風魔における、大人への意味だ。
それは主君と忍びという関係で、最初に象徴されている。
風魔はこのように、人によるいくつもの象徴表現を上手く使っている。
(例えば竜魔は父でメンター、劉鵬は母、壬生はシャドウ、
蘭子はヘラルド、陽炎はトリックスターなど)
まあ、具体的なモノが少ないからこその工夫か。
二本の聖剣と、血羽と霧ぐらいだよな、使えたモノは。
(僕が却下した伊藤氏のアイデアに、
風林火山が北条のじいさんの写真の裏からバリーンと出てくる、
というのがあった。ビジュアル的にはなかなかインパクトがあるが、
小次郎にとっての何の象徴表現にもなっていないと判断し、却下した)
何か抽象的なものを失う→何か具体的なモノが壊れる、なくす
何か抽象的なものを得る→何か具体的なモノを得る
何か抽象的なものが変化→何か具体的なモノが変色するとか変形する
などのように、具体的なモノ(または人)に象徴させると、
強い表現になると思う。
2015年09月12日
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