2015年09月13日

「俺のターン」なんて言う奴がメアリースー

ずっと嫌いな言葉がある。
漫画における、俺のターンという言い方だ。

ターンといってもくるくる回るわけではない。
番手という意味のゲーム用語である。
将棋は、二人が一手ずつターンを繰り返すゲームだ。
好きなキャラが活躍するときでも、○○のターンとか言う言い方がある。

ターンが終われば出番が終わりで、
またターンが来るまで待つことになる。

これは何重にもおかしな現象である。


まず、好きなキャラのターン待ちになる現象がおかしい。
それは主人公に感情移入してなくて、
別キャラ待ちになっていることを意味する。
本来、物語はずっと主人公のターンの筈だ。

なのに、それ以外のキャラのターン待ちは、
明らかにおかしい。
出来ていない物語なのか、見る側が邪な見方をしているかだ。

物語は主人公のものだ。
脇役のものではない。
○○のターンなんて言われるような物語は、
既に物語の資格がないと思った方がいい。


次に、主人公にターンが来るか来ないかという話。

主人公にターンが「来る」というのがおかしい。
ターンは誰かから与えられるものではない。
自分で切り拓くものである。
たとえば7、8人で喋っているとき、
なかなか会話で発言できない人がいる。
大家族集団で育たなかった現代っ子たちは特にそうだ。
そういう子は、誰かに「お前はどう?」と振られるまで、
積極的に発言できない。
自分のターンが「来て」、はじめて何かが出来る。
こういう子は、自分のターン以外はずっと待ちである。
待ってることは耐えること。だから詰まらない。
不満が溜まるから、「ずっと俺のターン」になりたいのである。

もう、初手から間違っている。
ターンは待つものではない。
つくるものだ。
大集団の会話に、積極的に入ればいいのだ。
それをせずに振られ待ちだから、
ターン制だと勘違いするのだ。
現実はターン制ではない。
自分の居場所を自ら切り拓くものである。


そういう事が出来ない弱い奴が、
「ずっと俺のターン」を書きたがる。
それはメアリースーである。
相手から与えられるまでなにもせず、
迷惑を省みず、
幼児的全能感の解放が目的のもの。

幼児的全能感の解放でスッキリしたら、それでおしまいで、
それが周囲にどのように影響するかとか考えてないし、
リアクションがあったらそれに返すリアクションに困る。
それが「俺のターン」というただの点だ。


物語は、主人公が全てだ。
主人公が自ら世界を変えようとして、
積極的に何かをすることだ。
普段そうしない人でも、それだけの動機が生まれて、
それをしなければならないから、するものである。

決して、俺のターンが来たから全能感を爆発して、
それきりで終わるものではない。
全能感爆発は、1ターンの点に過ぎない。
物語は、何ターン、何10ターン、100以上のターンが、
一本の線になることで、
ひとつのことを語ることである。


つまり、俺のターンとか言ってる奴は、
何重にも物語を分かっていない、
そもそもよわっちいやつなのだ。
弱いから、メアリースーになるのだ。

せいぜい強くなってから出直すことだ。
まあ、観客としてはどうでもいい。
問題は、作る側にそれを自覚してない奴がいることだ。
posted by おおおかとしひこ at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック