脚本は油絵だと思う。
何回も重ね塗りしたり消したりして完成させるものだ。
水彩画や書のような、一発がきでないことは確かだ。
そういう性格のものだと知っていると、
最初に一発でエレガントな構成になったりすることは、
疑ったほうがいい。
多分、最適解ではない。
構成というものは、
その形にはめるために物語を作るのではなく、
流れを考えに考えて、
対比や伏線や、内外のバランスや捻りを考えて、
起伏やたるいところや急ぎすぎてる所を考えて、
練りに練った上でたどり着くものだ。
つまり、0から書くときの完成予想図なんて、
大抵目標に過ぎなくて、
実際書き終えたものは、それとは大分遠いものが出来ていて、
それをリライトして練っていく過程で、
自然に構成という何かしらの秩序へ収束していくものなのである。
つまり構成は結果であり、原因ではない。
シドフィールドが、
第一と第二ターニングポイントしか明記せず、
あとはスカスカな理論を作ったのも、
昔は理解できなかった(もうちょっと指針はないのかよ)が、
今は分かる。
話を練れば練るほど、
退屈を切り急ぎすぎを粘り、
面白く起伏をつければつけるほど、
三幕構成のバランスに(無意識に)近づいていくのである。
これは経験上の話だ。
執筆経験が沢山あるからそうなるのか、
沢山名作を見ていて、そのリズムが身に染みているからかは不明だ。
あるいは生理的なリズムかも知れないが。
最初からこれを目指すのではなく、
練った末にたどり着いたらこれだった、
というのが構成のバランスだ、というのが正しいプロセスのような気がする。
だから、最初にエレガントな構成を引いて、
そのコンセプト通りに作る、
という、一見エレガントなやり方は、
僕は間違いを起こすと忠告する。
建物の設計や音楽の設計ならそうなのかも知れないが、
ことシナリオについては、そうはいかないと思う。
何故なら、構成よりも、
その文脈での焦点や感情のほうが、大事だからだ。
それに注目しているうちに話がどんどん進む方が、大事だからだ。
それを大規模構造で見たときに、三幕構成になっているよ、
というレベルでしか、構成の意味はないのである。
まだ書かないうちに、
最初にエレガントな構成が引けたら、
それはむしろ危険信号と考えよう。
何故なら、その構成コンセプトに溺れて、
焦点や感情の行方といった、一番大事なミクロ部分がないがしろにされるからだ。
ストーリーは砂かぶり席で見るものであり、
構成コンセプトを見るものではない。
というのも、
今、てんぐ探偵を16話の自選集にまとめ直しているのだが、
エレガントに構成してやったぜ、
という俺のどや顔が見え隠れして、
シンイチの思いや、読者目線での感情移入の流れに、
なりきれていないことに気づいたからだ。
エレガントな構成をプレゼンされた気はしたが、
本編を十二分に堪能した訳ではなかった、
という感じだ。
本編を練って、最終的にエレガントな構成になるのなら、
それも良し。
エレガントな構成にならなくても、
本編の流れが最高なら、それも良し。
良くないのは、構成倒れで、本編がいまいちな時だと思う。
エレガントな構成は、疑え。
コンセプト倒れで、実質がないかも知れないぞ。
たとえば「フォールーム」は、
「ホテルの4部屋で起こるドタバタ」というコンセプトのほうが面白く、
実際はそうでもない。
「グランドホテル」は、その元ネタで、
「あるホテルに宿泊している色々な部屋で起こるドタバタ」というコンセプトが一番面白く、
実際はそこまででもない。
同様にこれを元ネタにした「有頂天ホテル」も、
豪華キャストや変人ばかりというコンセプトが面白く、
実際はそこまででもない。
人はコンセプトを見るのではない。
人々の感情や行動で泣き笑いし、テーマを感じる為に見るのだ。
構成のコンセプトなんて、たいした威力を持たない。
(ただ、プレゼンばえをするので、
製作に入りやすい)
エレガントな構成は、酔いやすいということだ。
2015年09月14日
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