2015年09月15日

大プロジェクトほど、コンセプト倒れる

「コンセプト倒れ」という言葉で、
もう少しマクロな話も理解できる。

大プロジェクト、すなわち、
関わる人が多いものほど、
このコンセプト倒れが起きやすいのではないかな。


大プロジェクトほど、
大まかなコンセプトでまず首脳陣の了解を取り、
判子を取って進めるものだ。

しかし、コンセプトが斬新でなく、
ごく普通のものだとしたら、
コンセプトでコンペをやるときに目立たず、
勝てない。

そこで、わざと珍奇なコンセプトを立て、
コンペを勝ち進もうとする輩が現れる。

佐野五輪デザインや、安藤忠雄を思い浮かべるといい。
「積み木のようにパーツを作って展開する」とか、
「太陽が十字架になる教会」などだ。
言葉やアイデアで聞くと、
なかなか斬新で、面白そう、というリアクションが出る。

「二十一世紀を牽引する、アジアの雄として、
古い文化と新しい文化の融合で、
震災からの復興を象徴するシンボル」とか、
「改めてキリストとマリアの関係を確認させる、
永遠性を強調したデザイン」
という保守本流のコンセプトよりも、
コンセプト映えするのである。

選ぶ側もぼんくらであることを思いだそう。
市場の動向に詳しく、民意を把握し、
求められていることとこれからすべきことの、
バランス感覚に優れているとは限らない。

だとすると、コンセプトを並べたときに、
目立ったものに票を入れがちである。
多数決は、目立つコンセプトが妥当かどうかを議論しない。
何故ならまだ作っていないからだ。

ここでプロが居れば、
そのコンセプトは、コンセプト倒れになるよ、
と看破出来るのだが、
なにせ素人のぼんくらが選ぶのだ。
保守本流より革新的なものを選びがちなのは、
分からないでもない。


さて、こうしてコンペでは、
斬新なコンセプトが選ばれる。
しかし、そのコンセプトは、コンペを勝つためだけの虚策に過ぎず、
実際には大したことのない出来映えにしかならない。
絵にかいた餅になる。
絵にかいた餅は旨そうだが、
出来上がった餅はショボい。
どこかのおせちのようになる。

佐野五輪デザインは、コンセプトに比べデザインがダサい。
真夏の東京を想像し、そこに黒と赤と銀と金がちょこちょこあるのは、
イライラすると思う。
安藤の教会に至っては、冬は寒いし雨は吹き込むし、
太陽が十字架になる時間帯なんて晴れた日の12時近辺しかなく、
あとは斜めの十字架にしかならない。

絵にかいた餅だ。
現実の着地はショボい。

それは、絵にかいた餅からは、予測できない。

プロならば、そのコンセプトの実現の、実現性に疑問を持つ。
どうするつもりやねんと。

しかし、ぼんくらが沢山集まれば集まるほど、
斬新なコンセプトを選び、
それが出来ると言っているのだから、
大丈夫でしょ、と、実際の餅を見ない。


我々は絵にかいた餅は見ることなく、
実際の現場にあるショボい餅しか見ない。
他になかったのかよ、これしかないのかよ、
と文句を言う。
なんでこれがコンペに勝ったのかを調べると、
絵にかいた餅は旨そうだったが、
というコンセプト倒れに突き当たる。

コンペで選んだ人たちは、
実際の餅を食べるまで責任を持つべきだ。
絵にかいた餅が本当に美味しかったかどうかまでだ。
我々はマズイと言っていることを実感するべきだ。
ところがこれは実施されない。

コンセプトがある時点で、完成された気になっていて、
現場の惨状を、理解しないからである。
理解しないのは、そもそもぼんくらだからだ。




これは、人が集まるプロジェクトで、
必ず起こる、人の病かも知れない。

小さな例では、卒業旅行の、コンセプトと実際の旅の差。
中くらいの例では、デザインコンペのコンセプトの実現の差。
大きな例では、CMのコンセプトと実際の差。
映画の企画書と実際の差。(たとえば「進撃の巨人」と実際の実写映画)
もっと大きな例では、大日本帝国の侵略戦争のコンセプトと実際の差。

コンセプトは、人をまとめ、その実現がきちんと可能な範囲においては機能する。
しかし、時に実現を逸脱し、コンセプトだけが魅力的になるとき、
失敗が起こる。

人は現実を見ずに理想を夢想することが好きだからだ。
「あなたを一生幸せにします」というコンセプトは魅力的だが、
果たして一生を終え、そのコンセプトが現実に実現できた男は、
何人いるのか。
コンセプト倒れとは、その程度の確率で起こるのではないか?


それはコンセプト倒れになる、と予測できるのは、
余程現場を知らないと出来ない。

戦争の現場を知らない人間が、大東亜のコンセプトを語る。
映画の現場を知らない人間が、映画の企画書を通す。
デザインや建築が現場でどうなるか分からない人間が、コンペをコンセプトだけで選ぶ。
旅行したことない人間が、コンセプトだけで舞い上がる。
結婚したことない女が、プロポーズで舞い上がる。


つまり、コンセプト倒れとは、コンセプトで舞い上がっている。
その実現性に疑問を抱かず、舞い上がっているのだ。


実行犯に非難はいくが、
選んだぼんくらには責任が生じない。
何故なら選ぶ側を断罪する外の機関がないからだ。
戦争裁判がなされたのは、外部からだった。


僕らの直結の問題で言えば、
企画書通りに作れなかった映画の、企画書を通した奴ごと、
責任を取るべきだと思う。
製作委員会である。
製作委員会の面々は、これまでどの映画の製作委員会に入ったのかを、
つまびらかにするべきだ。
そうすれば、そいつがぼんくらかどうか判断できるぜ?

俺たち現場の者は、何をやってきたのかつまびらかにされるくせに、
そこに不透明さがあることが、
俺は解せないのだよ。
posted by おおおかとしひこ at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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