「コンセプト倒れ」という言葉で、
もう少しマクロな話も理解できる。
大プロジェクト、すなわち、
関わる人が多いものほど、
このコンセプト倒れが起きやすいのではないかな。
大プロジェクトほど、
大まかなコンセプトでまず首脳陣の了解を取り、
判子を取って進めるものだ。
しかし、コンセプトが斬新でなく、
ごく普通のものだとしたら、
コンセプトでコンペをやるときに目立たず、
勝てない。
そこで、わざと珍奇なコンセプトを立て、
コンペを勝ち進もうとする輩が現れる。
佐野五輪デザインや、安藤忠雄を思い浮かべるといい。
「積み木のようにパーツを作って展開する」とか、
「太陽が十字架になる教会」などだ。
言葉やアイデアで聞くと、
なかなか斬新で、面白そう、というリアクションが出る。
「二十一世紀を牽引する、アジアの雄として、
古い文化と新しい文化の融合で、
震災からの復興を象徴するシンボル」とか、
「改めてキリストとマリアの関係を確認させる、
永遠性を強調したデザイン」
という保守本流のコンセプトよりも、
コンセプト映えするのである。
選ぶ側もぼんくらであることを思いだそう。
市場の動向に詳しく、民意を把握し、
求められていることとこれからすべきことの、
バランス感覚に優れているとは限らない。
だとすると、コンセプトを並べたときに、
目立ったものに票を入れがちである。
多数決は、目立つコンセプトが妥当かどうかを議論しない。
何故ならまだ作っていないからだ。
ここでプロが居れば、
そのコンセプトは、コンセプト倒れになるよ、
と看破出来るのだが、
なにせ素人のぼんくらが選ぶのだ。
保守本流より革新的なものを選びがちなのは、
分からないでもない。
さて、こうしてコンペでは、
斬新なコンセプトが選ばれる。
しかし、そのコンセプトは、コンペを勝つためだけの虚策に過ぎず、
実際には大したことのない出来映えにしかならない。
絵にかいた餅になる。
絵にかいた餅は旨そうだが、
出来上がった餅はショボい。
どこかのおせちのようになる。
佐野五輪デザインは、コンセプトに比べデザインがダサい。
真夏の東京を想像し、そこに黒と赤と銀と金がちょこちょこあるのは、
イライラすると思う。
安藤の教会に至っては、冬は寒いし雨は吹き込むし、
太陽が十字架になる時間帯なんて晴れた日の12時近辺しかなく、
あとは斜めの十字架にしかならない。
絵にかいた餅だ。
現実の着地はショボい。
それは、絵にかいた餅からは、予測できない。
プロならば、そのコンセプトの実現の、実現性に疑問を持つ。
どうするつもりやねんと。
しかし、ぼんくらが沢山集まれば集まるほど、
斬新なコンセプトを選び、
それが出来ると言っているのだから、
大丈夫でしょ、と、実際の餅を見ない。
我々は絵にかいた餅は見ることなく、
実際の現場にあるショボい餅しか見ない。
他になかったのかよ、これしかないのかよ、
と文句を言う。
なんでこれがコンペに勝ったのかを調べると、
絵にかいた餅は旨そうだったが、
というコンセプト倒れに突き当たる。
コンペで選んだ人たちは、
実際の餅を食べるまで責任を持つべきだ。
絵にかいた餅が本当に美味しかったかどうかまでだ。
我々はマズイと言っていることを実感するべきだ。
ところがこれは実施されない。
コンセプトがある時点で、完成された気になっていて、
現場の惨状を、理解しないからである。
理解しないのは、そもそもぼんくらだからだ。
これは、人が集まるプロジェクトで、
必ず起こる、人の病かも知れない。
小さな例では、卒業旅行の、コンセプトと実際の旅の差。
中くらいの例では、デザインコンペのコンセプトの実現の差。
大きな例では、CMのコンセプトと実際の差。
映画の企画書と実際の差。(たとえば「進撃の巨人」と実際の実写映画)
もっと大きな例では、大日本帝国の侵略戦争のコンセプトと実際の差。
コンセプトは、人をまとめ、その実現がきちんと可能な範囲においては機能する。
しかし、時に実現を逸脱し、コンセプトだけが魅力的になるとき、
失敗が起こる。
人は現実を見ずに理想を夢想することが好きだからだ。
「あなたを一生幸せにします」というコンセプトは魅力的だが、
果たして一生を終え、そのコンセプトが現実に実現できた男は、
何人いるのか。
コンセプト倒れとは、その程度の確率で起こるのではないか?
それはコンセプト倒れになる、と予測できるのは、
余程現場を知らないと出来ない。
戦争の現場を知らない人間が、大東亜のコンセプトを語る。
映画の現場を知らない人間が、映画の企画書を通す。
デザインや建築が現場でどうなるか分からない人間が、コンペをコンセプトだけで選ぶ。
旅行したことない人間が、コンセプトだけで舞い上がる。
結婚したことない女が、プロポーズで舞い上がる。
つまり、コンセプト倒れとは、コンセプトで舞い上がっている。
その実現性に疑問を抱かず、舞い上がっているのだ。
実行犯に非難はいくが、
選んだぼんくらには責任が生じない。
何故なら選ぶ側を断罪する外の機関がないからだ。
戦争裁判がなされたのは、外部からだった。
僕らの直結の問題で言えば、
企画書通りに作れなかった映画の、企画書を通した奴ごと、
責任を取るべきだと思う。
製作委員会である。
製作委員会の面々は、これまでどの映画の製作委員会に入ったのかを、
つまびらかにするべきだ。
そうすれば、そいつがぼんくらかどうか判断できるぜ?
俺たち現場の者は、何をやってきたのかつまびらかにされるくせに、
そこに不透明さがあることが、
俺は解せないのだよ。
2015年09月15日
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