今日は台詞のリアリティーの話。
「こういうとき、こういうこと言うかなあ」
と直感で疑問に思うことは大事だ。
文脈と台詞にギャップがあって、
台詞にリアリティーがない、
ということを意味する可能性がある。
リライトのチャンスととらえよう。
リライトの方向性は、大きくふたつある。
1. 表面に見えている台詞を直すこと。
2. 台詞が自然にそう出るように、文脈を直すこと。
1は楽だ。
こういうとき、リアルに言うこと、に台詞を直せばいい。
それで進行が変わらなければ問題ない。
文脈の進行を下手な台詞が邪魔していた、ということだ。
リアルな台詞は、現場や経験者のほうが上手かったりする。
あなたは取材が足りなかっただけにすぎない。
人間の観察が足りない、デッサンの下手な画家のレベルであったのだ。
問題は2だ。
そもそも台詞というものは、
あなたがこのような話にしたい、という意志を示す。
特に決め台詞はそうだ。
T2の「どうして人間が涙を流すのか分かった」
という決め台詞は、
そう書くべきだという意志の下に書かれた台詞だ。
だからロボットが溶鉱炉に入るときにリアリティーがない台詞だ、
として、この台詞を直してはいけないのだ。
もしこの台詞がしっくりこないのなら、
その台詞を言うまでの文脈の方に問題がある、
と考えた方がいい。
T2の決め台詞の例では、
チップを現代に残してはスカイネットの基になるから、消滅させることがベストだということ
(ダイソンの死も同じくだ)
心の交流がジョンとTの間にあったこと
ロボットが涙は合理的じゃないと批判していたこと
などの文脈の、
どれもが欠けてはいけない。
しかし例えば第一稿で、
ダイソンが生き延びていたり、
涙を流すのは不合理だという場面がなかったとする。
にも関わらず決め台詞は書けていることもある。
この時、
この決め台詞を、ロボットが溶鉱炉に入るときの、
リアリティーある台詞に変えてはいけない。
そうではなく、
それまでの文脈を作り直し、
決め台詞へと集約するように書き直すべきなのである。
ダイソンは死ぬし、涙の場面を追加するべきなのである。
僕がよく逆算だ、というのはそういうことだ。
これを判断するのは、
あなたがその台詞にどれぐらい思い入れや意志があるかで決まる。
その台詞を言うためにこのシーンがあるのだ、
と強く思い、かつ文脈と合っていないのなら、
ここに至る全ての文脈を、その台詞が自然に出るように、
直せばいいだけのことだ。
自然に、リアリティーのあるように、
沢山のことを直すのだ。
これは1の、台詞一行をただ直すという、
表面的な直しではない、相当根本的な直しだ。
その台詞を言うべきか、その文脈を保つべきかを、
あなたは作者として判断しなければならない。
さらに。
3. 文脈を作り変えた上で、決め台詞も変える
という創造的直しも存在する。
決め台詞で、更にいい台詞を思いついたときに、
よくあることである。
台詞合わせで文脈を大工事
→その文脈なら、こういう決め台詞だと更に良くなる
→その台詞合わせで文脈を大工事
なんていう二度手間になることも、リライトの途中ではよくあることである。
(更に、前の決め台詞に戻してみて、
どっちがいいかなあと迷ったりしてね)
今、てんぐ探偵の前半部を直していたりするのだが、
昨日は「静かな朝」(妖怪アンドゥ)の決め台詞をずっといじっていた。
妖怪が外れる時の決め台詞が、しっくり来なかったからだ。
最初発表した時は、タケシはシロの死に際してこう言っていた。
「生きたんだな、シロ」
つまり、アンドゥして人生を後ろ向きに生きるタケシが、
生き尽くすシロを見て、妖怪が外れるというお話だった。
しかし、シロが生き尽くすというほど、
シロの描写はなかった。
そこで第二バージョンでは、
「4三、角」と、
中断されていたシンイチとの将棋を再開することで、
生きていく意志を表明していた。
が、僕はここに違和感を(いまさら)覚えてしまったのだ。
シロが死んで心が乱れているときに、
そんなことを言うかなあと。
一応テーマには合ってるし、
将棋の伏線が回収されるわけだから、
構造としては合っている。
しかしリアリティーに欠ける気がしたのである。
つまり、頭で書いた話で完成はしているが、
リアリティーという肌の感覚が違う気がしたのである。
そこで、2のパターンだと思い、
将棋台詞に向かって、シロの入院あたりから大工事をはじめた。
将棋の駒を並べるときにこれまでのストーリーを思い出す、
というシンイチの台詞が肝になるはずだ。
しかし、何度やっても、
シロの死のほうが心情的には大きく、
将棋にまで感情は至らない。
後ろ向きに歩いたヘンテコな散歩と引っかけたいのだが、
概念が逆向きでしっくりこない。
将棋を再開することが、
アンドゥを心から離すことと違うのではないか、
とようやく僕は考えが至る。
戻るのではなく進むことに意識を向けること、
シロの死が、その契機になること。
ここを変えてはならない。将棋は従でシロの死が主だ。
で、シロの死とは何かという、より根本的なことを考えることにして、
シンイチとタケシをぐねぐね会話させているうちに、
「(シロが最後に手を舐めたのは)お前が好きだって言う為だ」
というシンイチの優しさを受けて、タケシが、
「ちがう。最後に手を舐めたのは、それで人生を完成させようとしたからだ」
と返す台詞が書けた。
ということで、この台詞を決め台詞にするように、
文脈を再び大工事し直すことにした次第だ。
死を受け入れること、
生は(たとえ不格好でも)人生を完成させようとすること。
死という敗北へ向かう(後ろ向き)のではなく、
死という完成に向かう(前向き)こと。
勿論子供のなかでここまで宗教的言葉になっているわけではないが、
これと同じ意志が生まれた瞬間、アンドゥが外れるように、
話を組み直す。
昨日書き直したばかりなので、
これがベストかどうかはあとで判断することにする。
今のところ3バージョンあるなかでは、
一番リアルで、いいと思っている。
(結局、4三に何を打つか、という将棋の話は結果的にどうでも良くなる。
アンドゥの概念を示す小道具になってしまっただけだ。
しかしラストに二人が将棋を再開させて終わらせるのは、
ダサいラストの気がする。
この話の肝は、静かな朝に、タケシが一人で「静かな朝」を、
完成させるラストシーンだ。
ということで、将棋の分量が減っていき、
シンイチとの友情の象徴の道具にすることにした。
結局、将棋じゃなくて書道の話なんだよねこれ。
ということで、将棋はマクガフィンに過ぎない)
こういうとき、こういうこと言うかなあ。
その違和感はとても大事だ。
しかし患部を見つけたからといっても、
治し方は症状によって変わるのである。
素人ほど、手間がかからない治し方を選ぶ。
それで表面的には治った気になり、
根本的な、ストーリーとしてガツンと来ないという、
誤りを犯す。
タケシのその台詞だけを100万回書き直したって、
傑作にはならない。そう判断できるかどうか。
中級者は、台詞とは意味であることを把握していて、
その意志を通すための環境作りをきちんとやる。
上級者は、全部作り替えてもっといいのにする。
(達人は、一文字だけ直して上手くやるかも知れないが、
僕はそこまで上手くない)
あなたは、どのレベルのリライト力だろうか。
直すとき、どう直すのか。
直し方にも、上手い下手があることを知っておこう。
下手な直しならば、直さない方がましだってことは結構ある。
そして、下手な直しを沢山やって、
意味のわからないグダグダ脚本になることは、
もっとよくある。
2015年10月02日
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