ストーリーを書くことの障害のひとつに、
世界観の創造があるのでは、という話。
架空の世界を作ることはとても楽しい。
ナントカ星人が突然現れて、とか、
空き地に次元の扉が現れて向こうの世界へいく、
なんてのは、夢想したことのない人はいないだろう。
このとき、ナントカ星がどういう位置関係にあり、
どういう科学技術があり、どういう文化で社会機構か、
まで考えるのもとても楽しい。
次元の向こうの世界についても同じくだ。
この世界と微妙に歴史が変わっていて、
○○が存在しないとか、文字が違うとか、
スマホの使い方が違うとか、
そういうのを考えるのもとても楽しい。
ある日机の引き出しから未来型ロボットがやってくるのなら、
その23世紀の未来の技術や自分の子孫に関することを、
世界設定しておくのも楽しい。
人工知能が自我を持ち、人類を核で壊滅状態にさせたあと、
人類のレジスタンスを掃討している戦争世界の、
世界設定しておくのも楽しい。
前者は言うまでもなくドラえもん、後者はターミネーターの、
世界設定である。
僕は、世界設定は一種の箱庭療法ではないかと考えている。
今この世界に生きるのがとても苦しい人が、
この世界ではないもうひとつの世界があることを、
妄想したり実際に作り上げることで、
心の苦しみが取れるということである。
おそらく今の世界に生きることが苦しい原因は、
自分の力を発揮しきれない苦しさだと思われる。
だから、こういう世界だったら、
自分の能力が200%使えるのに、
という架空世界を作って、
ある種のカタルシスを得るのだろう。
死ぬのが苦しい人、生きるのが辛い人が、
宗教的世界観を作ることも、
僕は同じだと考えている。
宗教的世界観の特徴は、
天使の種類や仏の種類(曼陀羅)見ても分かるように、
覚え切れないほどの体系を網羅的に作り上げることだ。
一種の偏執狂とも思えるほどに、
綿密に作られていることだ。
僕はこれは、発生した当時の箱庭的世界観ではなく、
後世の人が上書きしたものではないかと考えている。
箱庭を更に箱庭にしたような感じだ。
(そういう意味では、二次創作がオフィシャル化したのだ)
偏執狂的細かい世界観は、
そこに浸ることで一種の思考停止を生む。
そこで快感を得て、箱庭療法がわりになるのではないだろうか。
世界観を作ることは、
実はそれ自体が強い快感があると思う。
世の中に金剛界と胎蔵界があって、大日如来は不動明王の化身であることや、
(真言宗)
地獄の門の地下にサタンが封印されてあって、
セラフやウリエルやガブリエルがいることや(キリスト教)、
星団最強の天位を持つ騎士がいてそのファテマは星団最高の科学者クロームバランシェ作であることや、
(ファイブスターストーリーズ)
現行兵器ヘビーメタルは過去の失われた技術のレプリカにすぎず、
オリジナルのヘビーメタルがパワーも性能も段違いであり、
その最高なのがオリジナルブラッドテンプルであることや、
(そのもとネタのエルガイムの裏設定)
56億7000万年後に世界を救うため、今は天界で修行中の弥勒菩薩がいて、
その上の阿弥陀如来に全てを任せよという世界観や、
(浄土真宗)
日本には800万の土着や自然神がいて、先祖も神になり、
それらは10月に出雲へ集まるのだが、
その子孫と言われる皇族は何故か出雲に参拝できないという世界観や、
(神道。天皇家中心の国家神道の場合、伊勢がトップ)
剣と魔法とドラゴンの世界は、
僕は、人間の同一の機能、箱庭を作りたがる行為から、
生まれたものだと考えている。
箱庭療法、つまり、自分が自由になれる世界を作ること、
の同根の作用だと考えている。
ビックリマンの世界観も、
ギリシャ神話の世界観も、
聖闘士星矢の世界観も、
クトゥルフ神話の世界観も、
幻魔大戦の世界観も、
ミリオタたちの世界観も、
相対性理論以降の宇宙物理の世界観も、
推理小説のトリックを作る世界観も、
オタサーという共同幻想も、
中世以降の日本に生まれた講という集団も、
全てが箱庭療法ではないかと考える。
今、目の前にない別の世界を作り上げて楽しむこと。
あるいは、世界をそのように理解すること。
それは、神話時代からの、
物語による世界の理解ということに、
本質的なのではないかと考えている。
錬金術もそうだ。
ただし客観的再現性を持つ理論だけが、
科学になっただけだ。
人間は、世界を物語(世界設定)で理解しようとする。
しかも、別の世界を設定することも、快感である。
人間はそういう生き物ではないかと、僕は考えている。
さてようやく本題。
世界設定を作ることは楽しい。
キャラ設定も楽しい。
それは、物語づくりと、関係ない行動である。
たとえば仏教を例に。
孔雀明王は孔雀に乗っていて、
真言は○○であり、
持ち物は○○と○○であり、
明王の一部であり、五大明王は不動明王を筆頭に○○○○であり、
如来や菩薩とは違う、憤怒の相で力を行使する、
如来のもうひとつの姿であり、
○○如来が孔雀明王の正体なのだ、
孔雀明王経を唱えればたちまち○○の効果が…
のように設定することと、
ある日○○の事件が起き、解決に乗り出すことに。
しかしすぐ解決せず、次々に問題が発生するのだ。
焦点はまずは○○を解決することに絞られるが、
あることによって別の方向へ進む。
外的問題の解決だけがこの話の軸ではない。
主人公孔雀明王は○○という内的問題を抱えていて、
その解決すら、この話のゴールだ。
つまり孔雀明王は、○○という動機で、
この外的問題を解決したいのである。
それはまるで我々にもよくある○○にも似ているから、
ついつい我々は孔雀明王の行く先が気になり、
感情移入をしてしまう。
そしてことは孔雀明王一人の問題ではなく、
関係者様々に波及し、事態は社会を巻き込むものになってゆく。
それらを繰り返しているうちに、
ついに○○という最終勝利条件が分かった。
しかしそれは最大の危険だ。
孔雀明王は○○の実現という個人的目標達成のため、
この最大の危険に挑み、
見事成功。
世界は平和に戻った。
この話は、○○という意味があったのだ。
ということを考えることは、
全く別の能力であると思う。
前者は設定、後者は作劇である。
あなたがストーリーを書けないのは、
作劇を設定だと思い込んでいること、
あるいは作劇から設定を分離して考えられていないことが、
原因ではないか?
キャラや設定や会話が書けることと、
ストーリーを書けることは、
全く別の能力である。
その自覚から、ストーリーづくりは始まるかも知れない。
そしてこのブログは、ストーリーづくりについて、
主に書いております。
2015年10月04日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック

