2016年09月02日

浅生鴨「アグニオン」書評

浅生氏とは一緒に仕事をしたことがあって、
なんと小説家(しかもSF!?)デビューしたらしく、
一冊頂きました。乞御高評ののしまでついていたので、
きちんと批評したい。


少年時代の夏休みに読んだ小説や、
アニメ映画の匂いがした。
ジュブナイルのジャンルなのかどうかは、
よくわからないけど。

そういうの最近ないね。
ドラクエやFFの、スーファミ時代までの匂いも近い。

「世界の存亡を賭けて闘う」
「対立する価値観を覆す」
「管理支配vs自由奔放」
「実は最初から仕組まれていた」
「あらゆる候補者の中から選ばれた、動機が最も強い一番の男」
「先行者の文明」「月、塔、黒い番兵、森、宇宙訓練、モグラの歌」
「色々な所へ冒険する冒険要素」「父と子と世界」
なんてあたりがそんな要素なのかも知れない。

ふと「さよなら銀河鉄道999」を思い出した。同じようなモトネタに影響を受けてるかもだ。


この物語のオリジナリティは、
二つの世界の同時進行という構成だ。
(まあ、でも、先行するSFやファンタジーSFゲームにありそうなものではある)
どん底から這い上がる、未来世界の宇宙訓練アカデミーものと、
民族的な世界観の、父のいない異能力の子の旅が、
カットバックしながら進行する。
中心となる主題は、「感情」だ。
前者の世界では、人工知能に支配され、人々は感情を制御されている。
後者の世界では、他人の感情が見え操作できる少年が主人公だ。
この二つの世界の交錯こそが、この物語のオリジナルな骨組みである。

感想だけ述べておくと、
圧倒的な設定の分量が楽しかった。
宇宙訓練の所(モグラは仲間を見捨てない)が良かった。
文章が巧みで、淀まず流れる思考が良かった。
頭がいい人の文だ。
ヌーの旅は面白かった。

この話の欠点は、ユジーンにあると思う。



以下ネタバレ。



後半、ファースの肉体にユジーンを転送するところは面白かった。
ベタだけど分かってるなあ感があって。
問題はそれまでだ。

ユジーンの死が早すぎたのではないか?
思わずページ数を確認したけど、第一ターニングポイントあたり、
1/4ぐらいだったと記憶している。
ユジーン復活が3/4あたり、第二ターニングポイント付近だったので、
半分ユジーンが出てないわけだ。

その間、仲間や博士たちの群像劇になっていたけど、
そこのキャラがいまいち立ってなくて、
誰が誰か、覚えきれなかった。
(ヌーの仲間は覚えやすいのに)
ギュンター、エドヴァルド、えっと誰だっけ、みたいな感じ。
古典的名作「11人いる!」みたいに、
各キャラクターを立てるエピソードが欲しかったところ。
(宇宙兄弟もそこで失敗していて、ジョーカーの下りが詰まらないんだよなあ。
せりかさんは流石にちゃんとやって来たけど)

ただでさえ二つの世界を行き来しているので、
行って来いのあとは、
もう誰が誰か覚えてないんだよ。
俺が記憶力ないだけかも知れないけれど。

でもそれは作者の狙いである可能性もある。
なるべく物事を抽象的に俯瞰したい感じなのが分かるからだ。

ところが、落ちから逆算すれば、
豊かな感情素や負の感情こそが大事なのだから、
彼らがもっと具体的な感情とともに記憶されるべきではないかと思ったのだ。
ヌーの仲間、とくにガドは感情むき出しの旧型人間のテンプレとして描かれていたが、
その他ももっとそうしたほうが、
テーマに落としやすかったんじゃないかなあ。

ラストにヌーが得た結論は、
「ユジーンたちの豊かな感情」が僕らの記憶にあってこそ、
効果的になる気がする。


ということで、ユジーンが死ぬのをミッドポイントぐらいに遅らせて、
アカデミー(機関だっけ)でのキャラ立てに、注力すべきだったと考える。
単純に、モグラ出身のユジーンに感情移入してきたので、
それが死で途切れ、僕の感情移入が宙ぶらりんになってしまったことが大きい。
もっとユジーンが何をどうするかが、中盤前半戦に見たかったところだ。
(三幕構成でいうところの、
二幕前半が最も難しいと僕は考えている。
この物語は、ここで失敗したと思う。ユジーンを殺さずに、
持たせる方法を模索すべきだったか)

感情移入の途切れが、とても気になった。
テーマが豊かな感情だけにね。


その感情で言えば、
たとえば「負の感情が、結果人を良く変えることもある」
ということを、エピソードで示すべきだと思った。
誰しもが思い当たる経験はあると思うのだが、
ヌーやユジーンの前半戦のエピソードにそんなものがあれば、
説得力を増したと思う。

同様に、後半の結論「全ての感情がそろうこと(陰陽合一みたいなこと)」
が、肉体を持たないスローガンに見えた。
そうだよ、陰陽が大事なんだよ、と、
作中のエピソードを根拠に納得したかったのに、
根拠は私たちの人生経験次第、というのが、いまいち来なかったところ。


それは、作中の全ての固有名詞が、
わざと意味のないカタカナで表記されたこととも関係していると思う。
「これは架空のものである」以上に、「ものごとの抽象化」に一役買っていた気がする。
それはファミコンのドット絵のような効果を持てたが、
逆に血肉を失うことになった。

血肉は、台詞や設定ではなくエピソードから出てくると思う。
ユジーンが「モグラは仲間を見捨てない」と、
宇宙訓練でヒロイン?を助ける場面が、
一番血肉が通っていた。
ヌーの、婆さんの感情をなくすところも良かった。
そういうものが全キャラにあれば。
(アレックスの子供の事故も、血肉が通っていた。
ガドの嫁(名前失念)の銀の義足も良かった。
エドヴァルドの父母のパートがなければ、
僕は彼を記憶できなかっただろうが、
それがとても良いエピソードだとは思えない)


負の感情ってなに?正の感情ってなに?
それが作中で具体的に反応したり変化したりすれば、
上滑りするスローガンにならず、
もっと真芯に来るものになったと思う。


一番ゾクッと来たのは、
ヌーの世界の方が未来なのか!って分かった瞬間。
でもヌーの世界があるんだから、
ユジーンの世界は破滅してないんだよな、
と先読み出来ちゃうのが、勿体なかったなあ。

おまけにユジーンに感情移入してないから、
ユジーンが死のうが生きようがどっちでもいいし。
まさか、ユジーンがヌーの父?
と気づいた時は、ちょっと萎えた。なんでやろ。
パターンだからかな。
(作中ではそれを感づいたのか、外していたけど)


高校生ぐらいで読んでいたら、興奮していたかもしれない。
世界の謎を解いていく話は、今でも大好きだ。

でもフィクションの「世界の謎」よりも、
現実の世界の謎のほうが、大人になると面白いんだよね。
ダークマターとかM理論とか、日ユ同祖論とか。
(あと、心の闇とか)

願わくば、SFというものは、
リアルな世界の謎と関係しているほうがいいと思う。
文学がリアル世界と無関係に成立し得ないように。

売り出しかたは多様性とかどうとか言ってるみたいだけど、
本編はそうじゃなかったのは読めば分かるしなあ。


ともあれ、二作目が楽しみだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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