2016年10月03日

全ての広告はチートである

チートとは、インチキの俗英語だ。
皆が同じルールでやる前提の社会で、
一人だけズルをしてゲームに勝つようなニュアンスである。
(たとえばラスベガスのギャンブルで、
出目をコントロールできるディーラーはチートである)

そして広告とは、
自分だけチートしている感じを与えるものである。


チートなんてのは、
ほんとは起こらない。
それはメアリースーであり、
のび太症候群だ。

自分だけ苦労せず、果実だけ得たい。
それは人間の怠けの真理である。
ある日水着のアイドルが部屋に訪ねて来ないかなあと、
誰もが夢想するのである。

そんなのが現実にないからこそ、
そのドリームは大変な吸引力を持つ。
フィクションはそれを少し利用する。
あからさまなのはバレるけど、
バレないように使うと麻薬になる。

バレバレなのはたとえばラノベで、
チート主人公というジャンルが形成されているぐらいだ。
むしろそれらが細分化され、チート+何か、
のようなジャンルになりつつある。
チートは前提、みたいな。
それはおかしなことである、というのは別の話なのでここではおいておく。


本題は、
広告とは、そのチートを叶えてやると、
麻薬のような効果があるということだ。
だってお金を出せばチートが買えるんだからね。

安いものはそれなりの、
高いものはその値段に応じて、
チートが手に入るわけだ。

風魔の小次郎(原作)の伝説の聖剣は、
チートアイテムである。
聖剣戦争が何故人気かというと、チート合戦だからだ。
原作者の車田はそれを反省してか、
のちのザジでは、アイテムに頼るチートを批判している。
ドラマ版ではそれを汲んだ描き方にし、
チートに頼る心を暗に批判している。
(「お前が悪いのではない。武器が悪いのだ」は、
市野監督回であるが、僕が書いた台詞である)


で、出来のいい広告というのは、
値段以上のチートをどれだけ与えられるかにかかっている。

たとえば文化を知らない成金が、
湯水のように金を使うだけで、
時間のかかる文化を学ばずして身に付けられる、
などと謳うわけである。
(レクサスの公告なぞは、いまだにそのバブル的な雰囲気が残っている)

安い値段のものでも、
普段の生活がちょっといい感じになる、ということを描いたりする。
それを付加価値とか、空気とか、読後感とよんだりする。
一時のユニクロなんかはそれを頑張っていた。

残念ながら、それらは数値化できないので、
なんでもかんでも成果測定主義の不景気の現在、
それらは広告から姿を消しつつある。
だから絵や音や話が、安いんだよな。

チートは麻薬だ。
使えば破滅。
使わずに匂わせる距離感がちょうどいい。

広告はやり逃げの世界なので、ふんだんなチートが気持ちいいはずだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック