若者の書く脚本が未熟なのは、
「全存在を賭ける」という行為が、
未熟で貧弱であるからである。
若者であることは、人生経験が足りないということである。
すなわちそれは、自分の全存在を賭けた経験が、
あまりないということである。
あなたは、物心ついてから、
何回、どれほどの、自分の全存在を賭けた経験をしたことがあるか。
あなたのなかでそれが物凄く大きな経験だとしても、
物語の中ではとても平凡であることはよくある。
どれだけ辛い失恋をしたことがあるとしても、
世の中の失恋ソングのシチュエーションより深く美しい悲しみである確率は、
相当低いと思う。
たとえば家族や恋人を事故で失ったとしても、
リアルならとても悲痛だろうけれど、
その辺の映画や漫画には、
そんなシーンは3本に2本ぐらいあるだろう。
年を取ることは、
自分の経験を相対化して見れるようになることでもある。
他人の、自分の全存在を賭けた経験と、
自分の、自分の全存在を賭けた経験とを、
見比べられるようになることだ。
映画的物語とは、
一人称ではない三人称の形式であった。
すなわち、他人の自分の全存在を賭けた経験を見ることであった。
あなたがどれだけ辛くて怖くて危険な体験をしたとしても、
他人から見れば普通以下ならば、
それは三人称的には無価値な物語になるわけだ。
こういうわけで、
若者の書く物語は、
平凡で、独りよがりなものになる確率が高いわけだ。
(特別ヘンテコな経験をしたことがある人は、
若者でも面白がられ、天才扱いされることがある。
しかしそれはたまたまそういう経験をしたから貴重なのであって、
物語を作る人として優秀とは限らない。
現に、若いうちに天才と呼ばれた人は、その後泣かず飛ばずである。
音楽や俳優と違って、物語を作ることには、年がある程度いると考える)
あなたの自分の全存在を賭けた経験。
誰かの、自分の全存在を賭けた経験。
それらを並列に並べ、比較し、
それより面白い経験を創作で作れることが、
物語を作れるということである。
あなたが若者ならば、
まだまだ失敗できるので、
自分の全存在を賭けた経験を、沢山つもう。
若いうちの無茶、ヤンチャが、
十年二十年経って効いてくる。
それまであなたが脚本を書いていればの話だが。
たとえば、
昨日「30を過ぎてから初恋の人に再会し、
旦那と子供の写真を見させられる」というシーンを書いた。
その男の全存在がかかった体験なわけだ。
自分の経験なら耐えられないかも知れないが、
それを相対化しながら、自分ならこれぐらい辛いと、
分かりながら書けるわけである。
それもこれも、大学時代に一番好きでふられた人に、
東京に出てきた時に子供連れでいいからとファミレスに呼び出した経験が、
僕にあるからかも知れない。
僕のリアルなエピソードじゃあ作り事としては詰まらない。
しかし昨日書いたシーンは、リアルでは不可能な、
作り事として面白いある仕掛けをしておいた。
大分先に、皆さんに御披露目されるかもしれない。
2016年11月14日
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