創作の目的なんて、
煎じ詰めればそういうことではないか?
自分だけがわかるこの感覚、
誰かわかるやつはいないか、という。
何故同人誌があんなにも沢山あるのか見ればわかる。
みんな、誰かわかるやつはいないか、
と同志を探している。
微妙で狭いところかも知れないが、
誰かわかるやつはいないか。
そうか、わかってくれるか、友よ。
そういう会だ。
だから、そうでない人に用はない。
そうでない人が文句をつけるのは筋違いという、
大人同士の会でもある。
いわば、閉じていることを前提としている。
我々が目指すプロフェッショナルというものは、
開いている。
誰が見てもいいし、誰が文句をつけてもいいし、
誰もが文句を言う権利があるし、
誰もが批判する権利があるし、
誰もが誉めてもいい。
そこに、
「誰かわかるやつはいないか」と、
誰もがわかるものではないものを入れても、
わかるわけがない。
「わかんねえよ」と言われるだけだ。
わかんないものは、「へたくそ」扱いされる。
それが、開いている場だということだ。
そこで上手と言われる作品は、
「誰もがわかることを、
なるべく多くの人が、『わかるよ』と言えること」
を表現している。
ここには二つのファクターがある。
誰もがわかることを題材にしているか。
そして、それを『わかるよ』とため息をつくほどの、
素晴らしい表現にしているか。
実際のところ、三つ目のファクターがある。
それは、
「まだ飽きてない『わかるよ』があるか」だ。
既に経験した感覚は、
何度でもいい(王道)と、
飽きてきた(ベタ、手垢)に分かれる。
既に経験してない感覚が、
「新しい」「新鮮」「新感覚」と呼ばれるわけだ。
しかしながら、新しいことは、
上二つのファクターを満たしている保証がない。
こうして、
新しいことをやればやるほど、
開いた場ではむつかしく、
閉じた場の表現になっていきがちなのだ。
マイナーという一言でこの問題を考えてはいけない。
「その新しい感覚」は、
誰もが気づいてないだけで、
実は次のメジャーになりうる、
次世代のスタンダードかも知れないからだ。
一見閉じているように見えるマイナーとも誤解される、
その新しいことは、
どうすれば開いたものになるのだろう。
ふたつある。
ひとつは、その新しさをグレードダウンすること。
そこまで尖らせずに、
ちょっと丸めて、誰もが食べやすいものにすることだ。
シュガーコーティングと呼ばれるテクニックである。
もうひとつは、
その新しさをグレードダウンすることなく、
表現で橋渡しをうまくする方法だ。
相対論は、その正体は虚数を含む偏微分方程式だけど、
「ウラシマ効果」という開いたSF表現で、
皆の心に届いたわけだ。
新しさをグレードダウンしては、
本質に妥協したことになる。
送り手も、受け手も、
微妙バージョンを共有することになる。
しかしウラシマ効果ほど開いたものにならないのなら、
やっぱりマイナーの烙印を押されるだろう。
抽象的で申し訳ない。
僕は、後者のことをやろうとしては、
成功したり失敗したりしている。
どれくらいのことを、どれくらい分かるよね、
という距離感は、色んな人と話すことでしか磨かれない。
世の中には、ほんとに色んな人がいる。
僕の作品の、好きなところがまるで違っててびっくりすることもある。
そこ?みたいな。
それらは、開いた表現ならでの経験だ。
閉じていたっていいことはないのだ。
仲間内でしか喋らないOLと、
キャバ嬢では、後者の方が話がうまいのだ。
あなたは、話がうまく、かつ、新しい「わかるよ」を、
作り上げなければならないのだ。
難しいけどね。
2017年02月07日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック

