2017年02月12日

物語に外見は関係するか?

むらさきさんの質問
「履歴書をつくる際、役者さんの外見とか、声優さんの声をイメージしてつくったほうが良いと思いますか?」

いい質問がきたので、記事形式で議論しよう。
結論を先に言っておくと、「書き手のレベルによる」と考える。


書き手のレベル、というのは、
おおむね初心者からベテランに至るまでに、
比例する能力があると考えるからである。
どういうことかというと、
「外見が物語に与える影響を、見積もる能力」である。

初心者、というか現代人は「まずビジュアル」という傾向が強い。
だから外見の設定をしないと、
「まず自分がイメージできない」という問題を抱えると考える。
なので、まず最初は、
「自分のイメージが、寝ても覚めても固定する」のであれば、
どのような手段を使っても良いと思う。
好きな役者、声優、これまでに会った人、漫画や空想の人物。
誰でも良いし、混ぜたってかまわない。
ぼくはたまに漫画(設定画)を書くこともあるくらいだ。

で、やってみるとわかるのだが、
「主要人物は詳細な設定をするくせに、どうでもいい人物は適当」
になる傾向があることが分って来る。

いちいちモブを描くのはめんどいから、
アシスタントに描かせる漫画家みたいだ。

ということで、
「外見の、どうしてもこれじゃなきゃいけない感」は、
人物によって左右されることが分って来る。

初心者のうちは、ここまで分かっていればいいと思う。
完結させることで精いっぱいだろうから、
どんな手段をつかってでも完結させたまえ。


さて次。

慣れてくると、
「外見の設定がどうしても必要な部分と、
別にどっちでもいい部分」
の区別がついてくるようになる。

せいぜい、
不細工/普通/美形
デカい、デブ、チビ、普通
ぐらいあれば事足りるようになってくる。

「目の覚めるようなグリーンアイで、抜けるような白い肌で、
うっとりするような金髪」とは限らなくても、
ざっくり美形の白人、と定めておけば、
話が成立するようになってくるものだ。


上級者ともなれば、
「どんな外見であろうが、面白い話」を書く。
いかようにでもなるように、だ。

逆にこういう話は、キャスティングがとても面白くなるわけだ。
どうとでもできるのだから、自由度が高いわけだ。


しかし実際の所、
誰がやってもいい役なんてのはない。
じゃあどこで決めるのか。
内面である。

「この人は人前に出るのが苦手」
だとしたら、色白で内気そうな、ひょろっとした人がキャスティングされるだろう。
「この人は怠惰なところがあり、抜けている」
ならば、デブでだらしなさそうな人がキャスティングされるだろう。

あるいは、キャスティングだけでなく、
「その俳優の役作り」にも反映される筈だ。
内気な役をやるのなら、前髪をのばして目を隠すようにして、
猫背になり、なるべく下を見るような芝居をするはずである。
それは台本に書いてない芝居だとしても、
「その人がその文脈でそこにいれば、普通そうする」
ということをするのが役作りというものだ。


分りやすい例でいうと、
「デスノート」の松山ケンイチの「L」だろうね。
彼は普段からああいうキャラではないのは、
バラエティなどをみれば分るだろう。

あるいは我らが小次郎の村井良大もそうだ。
小次郎の明るくていつも前を向いていて、
納得いかないことには激しく抗議する感じは、
村井の普段にはない性格だし、
村井の外見には関係ない部分である。
逆に、村井のルックスとは関係ない役の内面が、
文脈を通じて外に出てくるから、
魅力的なのだ。

とすれば。
「外見と内面に、ギャップをつくるべきだ」
ということに考えが及ぶはずである。


こうして、
役者の外見は、性格と関係ない、
むしろギャップがあったほうが意外性がある、
という結論になり、
「外見はなるべく不問とする」という原則が導かれるのである。


と、いうことで、
上級者は、
「面白い人間像と言うものは、
外見ではなく、内面を描くことで得られる」
ということを知ってるので、
「外見をイメージしてから書くのはバカだ」
という結論に達するわけだ。




さて。

もし、外見がどうしても欲しいのなら、
イメージすることだ。

しかしそれは、
その人物の何を現しての、その外見なのだろうか?

たとえば「リア充ウェーイ」だとしたら、
服装やアイテムでそれを表現したくなる。
しかしそもそもリア充なのは、
その性格や対人スキルなのではないか?

そして、その人がどういうときにどういう発言をし、
どういう行動をとるかを書く事が、
そもそも「脚本を書く」ということであるわけだ。



またドラマ風魔を例にとると、
第一話の、
蘭子と小次郎の丁々発止の漫才シーンを思い出そう。
あのシーン(いくつかある)は原作には一行もない。
全部僕の創作だ。

しかし原作にある、
「小次郎らしさ」と「蘭子らしさ」を把握していれば、
そしてそういう文脈があれば、
書けるシーンだと僕は考える。


あのシーンを、
あの二人以外が演じても、
それは蘭子と小次郎の丁々発止の漫才シーンになったことだろう。
(勿論、技量の差はあるかもだが)
それは彼らが蘭子や小次郎らしいからではなく、
台本に蘭子と小次郎らしさが台詞として書かれているからである。

僕が彼らをオーディションで決めたのは、
ルックスもさることながら、
「蘭子らしさ」と「小次郎らしさ」が、
一番出る技量だと思ったからだ。

蘭子の、
美人だがバンカラっぽくて押しが強くて古風なところ
(それゆえ不器用なところ)、
小次郎の、
お調子者で後先考えずまず行動してみようという、
しかも憎めなくて愛せる感じ、結局実力はある感じ、
こういう感じがうまく表現できる俳優が、
(オーディションに来た中では)
彼らがベストだったわけだ。




もしルックスだけで「この人物に似てる」かどうかを探すのなら、
漫画原作の実写化なんて永遠に不可能だ。
どうしてもそのルックスでなければならない話なんて、
ほんとはないのだ。
(昨今の漫画原作の実写化のキャスティングは、
ルックスばっかやってるから失敗なのである)

脚本家(ストーリー部門)は、
外見にこだわるより、
内面にこだわるべきだろう。



ということで、結論。

外見は、関係ない。
イメージの補助に使うのは、あり。
posted by おおおかとしひこ at 21:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
古畑任三郎は田村正和さんありき、コロンボをベースとして、
既に作られたキャラクターをアレンジして、肉付けしているのかなと思ったんです。 名探偵コナンは、安室透はおいといて、声優さんを決めて各キャラクターを作ってる感じがします。

ギャップや内面にこだわるべきなんですね。勉強になりました。
大岡様、ありがとうございましたm(__)m
Posted by むらさき at 2017年02月13日 05:15
長期間シリーズで出るキャラクターと、
映画のように一本に一回しか出ないキャラクターは、
区別するべきです。

本文では映画想定で書いています。
古畑は当て書きと呼ばれる手法で、
レギュラーキャラ(変化しないキャラクター)を前提に作られています。

探偵ものは、探偵は変化せず、
依頼者や犯人が変化を経験する型なので、
探偵は狂言回しであり主人公キャラクターではありません。
本文は、変化する映画想定キャラクター
(探偵ものでいえば、依頼者や犯人)に当てはまります。

田村正和は、自分は主人公なのか狂言回しかは、
分かっていて演じていたと考えられます。
「世にも奇妙な物語」の、タモリも同じ役どころです。
世界(変化)の外にいるキャラクターなのです。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年02月13日 11:58
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