2017年04月03日

主人公の寄与の度合い

前記事の続き。
そのストーリーに、
主人公はどれくらい関わっているのか。

出番の多さは見かけにすぎない。
主人公の行動によるステップ数/総ステップ数
が、せめて半分以上あるべきだと思う。



前記事の内容から、
ストーリーはそのステップで議論される。
そしてストーリーは、
状況に対する誰かの行動によって、
事態を変えていくことだった。

つまり、誰かの行動とその結果の影響が、
ストーリーを進行させるわけである。

つまらないストーリーの特徴のひとつは、
話が進行しないことである。
進行しない、展開がない、
と思われる裏には、
誰も行動していない、
誰の行動も事態の進展に寄与していない、
ということが考えられるわけだ。

たとえば僕が「シンゴジラ」を批判する多くの部分が、
人間の行動よりもゴジラの行動に焦点を当ててしまっていることだ。
私たちはゴジラでなく人間であるから、
感情移入の対象は人間であるべきで、
人間の行動がストーリーを進めるステップに、
寄与していない場面の多さが、
このストーリーをつまらなくしている。
ゴジラは人間ではいかんともしがたい、いわば自然災害でしかない。
これに人間が対処し、その結果事態がどう変わるか、
どう展開するかがストーリーのステップになるはずだ。
しかし、ストーリーのステップを握るのは、
人ならぬゴジラが殆どだ。
流石に後半ともなれば人間の主導権が取り戻されるが。
(もしかしたら「シンゴジラ」を絶賛する人は、
ゴジラに感情移入した人、
つまり「今の日本なんてなくなってしまえ、
もっと俺は自由に生きたい」とひそかに思っている人かもしれない。
もともと怪獣ものというのはその気があるのだけど)


話がそれた。
ストーリーのステップを進めるのは、
主人公であるべきである。
むしろ、
最もステップを進める登場人物を、
主人公と定義するべきである。

あなたが自己投影しやすい人物や、
あなたと立場や年齢や背格好が似ていることや、
あなたが親しみを覚えやすいかどうかや、
あなたが実現したいことを代わりにやってくれるかどうかや、
漫画の主人公キャラっぽいかどうか
(主人公っぽい見た目であるとか、誰か偉人の血を引いてるとか)、
とは、
一切関係がない、
ということに注意されたい。

スーパー大事なところだけ一回だけやるとか、
最初と最後だけしないのは、主人公ではない。
主人公とは、
そのストーリーのステップの、
大半を行動で動かす人物のことでなければならない。

別にアメリカ映画のようなヒーローだけが主人公の条件ではない。
クズで口が悪い男がいて、
でもその男の発言で事態がどんどん悪化していく話なら、
その男が主人公だと言えよう。

敵を倒すバトルがあり、勧善懲悪があり、
ヒーロー的な能力が要求される話に限り、
アメリカ的な、行動的で正義感が強く、
明るくてリーダーシップのある、
アメフトのクォーターバックみたいな主人公が、
書きやすいだけのことである。

そんな話を書くことだけが、ストーリーを書くことではない。
その話の、何をどう動かしたかが重要であって、
主人公っぽいかどうかは関係がない。
(ここでまたメアリースーの話をするのも面倒なので、
詳しくは過去記事をぐぐってください。
「書き手が自分を主人公にしてしまうがゆえに、
楽して主人公ポジションになりたくて、
最強能力を持っているのだがなぜか使わず、
なぜか周囲にはチヤホヤされている」
現象のことである。
定義から、このキャラクターは主人公ではなく、
傍観者に過ぎない)


ストーリーとは、
すなわち主人公の行動の記録である。
なぜその行動をとったのか、
その結果事態がどう動いたのか、
次にどうなったのか……というループが、
ストーリーのステップなのだ。

勿論事態に関与する人々は沢山いるはずで、
事態を進めたり後退させたりするのは、
他の登場人物によることもある。
(例:悪役の妨害、誰かの気まぐれ、
誰かの間違いやアシスト)
しかし結局、主人公がそれに対して何をどうしたか、
を描かなければストーリーが進展しない為、
それらの事態は、主人公への前ふりや
無茶ぶりになるだけのことである。


ストーリーを設計するとき、
全てのステップを洗い出すと良い。

それは、誰による事態改変
(進行、後退、新たな事態)か。
その担い手をリストアップすると良い。

ストーリーが停滞している時、
主人公は何を考え、何をしようとしているかを考えると良い。
主人公がリアクションしづらいなら、
他の人物に主導権を渡し、
その人物が行動すればよい。
それに対して、主人公がリアクションしやすくなるだろう。
(何かをいきなりするのが難しいなら、
何かに反応させればいいのだ。
これを「石を投げる」理論という)

いずれにせよ、
それらが主人公中心に書けたとき、
その主人公がストーリーを支配している、
という感覚になり、
ストーリーを主人公とともに歩んでいる、
という感覚になり、
主人公と喜楽も悲しみも、カタルシスも共有できるだろう。

それが三人称文学のあり方である。
posted by おおおかとしひこ at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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