2017年05月18日

アクションとリアクション2

つづき。

芝居のアクションとリアクションは、
空気という表面的なことで表現する。
脚本のアクションとリアクションは、
その表面の奥にあることを作ること。
つまり、「なぜそれをするのか」。


脚本に役者の芝居を指定するのは、
脚本に何が書かれているべきかを知らない、
素人の脚本家だ。

ふつうの役者ならば、
泣くという指示がなくとも、
その話のその場面が、
泣くほど悲しければ勝手に泣く。
怯えてガタガタ震えるという指示がなくとも、
恐怖でどうしようもない場面ならば、
勝手に体がそう動く。
その役として生きていれば、
その役として表現することを練ってきたならば、
それくらいは当然だ。
それが出来ないのを大根というのだ。
(大根とは、ただ突っ立っているだけの意味が元義。
台詞がヘタとかの意味ではもともとない)


さて。

脚本に書くべきことは、
なぜ泣いてしまうのか、
なぜ震えてしまうのか、
その理由である。

理由といっても、
「○○ゆえに○○」と論文のように報告するわけではない。
文脈である。
文脈を書くのが脚本なのだ。

文脈といってもわかりづらいね。
具体的には何が文脈になるのか。
脚本の武器は、柱とト書きと台詞の三つしかない。

つまり、
「こういう場所と時で、
こういうことを言ったりしたりするということは、
こういう理由があるからだろう」
と推察できるように書くのが、
脚本なのである。


みんなが静かにするべき葬式の場で、
「こんなしみったれた葬式をあいつが喜ぶか?
みんな、カラオケしながら送り出してやろうぜ!」
と行動する人は、
「本当に故人が好きで、その人と騒げないのがつらい」
からだ、ということを描くのが、
脚本なのである。

一言も悲しいとか辛いとか言わなくても、
ただ参列して拳を震わせたりするよりも、
楽しい歌を歌うことで、
「その人がとてもつらいのだ」という理由を推察させるのが、
脚本を書くという行為なのである。


このとき、
「カラオケしようぜ!」
というのは、アクションである。

ある理由(悲しみ)があり、
そのために行動をする。

その空気が浸透してゆき、
回りの人も最初はびっくりしたり反発するけど、
そのうちそうだな、やろう、という空気を作るのが、
リアクションという芝居である。

しかしまだこれは脚本におけるリアクションではない。

リアクションとは、
アクションと同レベルのことだ。
つまり、
こういう行動を取るからには、こういう理由があるからだろう、
と推察させることを作るのが、リアクションだ。

たとえば後日、
遺族が香典返しとして、
故人が好きだった歌を編集してくれて、
「どこかで歌って偲んでください」なんて「行動」をとれば、
それが「大変よいお葬式でした」という意味になるし、
遺族も喜んだ、という理由を示すわけだ。
逆に、
形式的な香典返しと形式的な言葉しか添えていなかったら、
「二度とああいう迷惑になる行為は慎んでください」
という意味になり、
彼らは怒っていたのだ、と理由を明らかに示すだろう。

アクション(行動で理由を示す)に対して、
リアクション(行動で理由を示す)で答える。

これが、脚本におけるアクションとリアクションである。

もしこのような台本が書かれていれば、
アクションをする人は、葬式の沈鬱な空気をどう打ち破ろうか、
台詞の言い方や目線や空気をどう作るか、
色々と工夫する。(芝居のアクション)
遺族役の人は、後日の対応(脚本のリアクション)を考えた上で、
そのときの顔を作るだろう(芝居のリアクション)。



私たち脚本家は、
役者の芝居を指定するのが仕事ではない。
役者がその場面でのアクションとリアクションが自由に出来るような、
脚本のアクションとリアクションを作るのが仕事である。

なぜそれをするのか。
それをするのはなぜなのか。
それに対してこれをするのは、どういう理由からか。
どうしてあんなことを言ったのか。

そして、全体的に、
その人は何を目指しているのか。
なぜそれを目指すのか、その動機や目的はなにか。

そしてそれはどのように変節し(ターニングポイント)、
最初に思っていたことと、どう変わり、
最終的に、どうなるのか。

それは、
ひとつも「○○ゆえに○○」と書いてはならない。

全てが、台詞と行動だけで、
推察出来るように書く。

それが台本である。



国宝級の役者大竹しのぶは、「ぜんぶ台本に書いてある」
と言った。
それは、明示されていなくとも、
推察出来るように書いてある、という意味である。
彼女の芝居は、芝居の指示をこなすことではない。
どうしてそういう行動をするのか、
どうしてそういう言葉を言うのか、
その理由を読み取り、
それを肉体言語で表現することをしているわけだ。

私たちは、肉体言語を記録するのではない。
その理由を作るのが仕事である。
そして、それがどうなっていくかの、線をつくり、
納得のいく結末を作るのが仕事である。
posted by おおおかとしひこ at 07:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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