とある作品について、
複数の人間で語ってみよう。
誰もがバラバラの評価なのは体験したことがあるだろう。
それは、あなたの作品についても同じだということが、
原理的に言える。
そもそも、人はバラバラである。
それぞれの人生経験から繰り出される、
先天的後天的要素による判断は、バラバラである。
論理的理解力に差がある。(数学の偏差値ですらバラバラ)
好みに差がある。
反応するものと反応しないものがある。
歴史的観点もバラバラである。
バラバラな人が、正しい批評、片寄ってない批評が出きるはずがない。
批評家とは、なるべくそのような片寄りを避けようとする職業だ。
その自覚をしてなお、複数の批評家は複数の評価を下す。
数を集めて平均すればいいかというとそうではなく、
数のノイズに、たったひとつの素晴らしい意見が無視される可能性がある。
本来の民主主義とは、その少数意見を貴重なものとして、
衆愚から救い出すための機構であったが、
衆愚は平均が一番正しいと考える。
衆愚の最も愚かな例は、ガリレオ裁判ひとつで十分か。
ガリレオがたった一人で真実を言っていても、
1000人がそれと違うことを言えば、
世間はその意見の平均(または最も多い意見=中央値)
を正しいと見なすだろう。
それが衆愚である。
人間は、一人一人が賢くても、
集団になると誤ることがある。
集団心理学では、それを研究することがある。
さて。
様々な意見、感想、批評が、映画にはある。
あなたも映画について沢山語るだろう。
別の人も沢山語るだろう。
それらは全て違う意見であり、
それはすなわち、
あなたの作品について語られることも、
同様だということ。
それらで最も多い意見が、正しい批評とは限らない。
彼らは作る人間ではないから、
「こうすればいい」という意見は、
「この肉には塩コショウをかけるべきだ」という、
好みを要求しているだけの可能性がある。
宣伝について言及できる人はかなりの批評家である。
「それを、どうしたら世の中に受け入れられるか」について考えられる人は、
「その本質は何か/その本質はどのような価値があるか」
について考えられる人だからだ。
おそらく、
正しい批評とは、
その本質が何かを探り当て、
自分なりに納得した上で、
世界における価値を同定することだと思う。
これは一体なにをしようとしたのか、
を考えた上で、「だったらこうすればよかったのでは」が言える人もいる。
しかしそれが本当に機能するかは、
作り直してみないと分からない。
(「こうすればいいぞ!」と思い付いて、
その通りに直せた経験がある?
たいがい無理だぜ?)
とにかく、人は勝手なことをいう。
少ない人だから片寄った意見になると思い、
なるべく沢山の意見を集約するのも、
間違っている。
それは衆愚だからだ。
人は他人の作品を完璧に理解してから批評しない。
「私はフランス風が好き」と自分がたりをしているだけの感想なぞ山ほどある。
(その最たるものは、「これは私が見たい作品ではなかった」
という愚かな感想だ。
そうではなかったが、面白かったかどうかだろうに。
そもそも自分の見たい作品だけを探し求めるのは、
他人を探すのではなく自分を探す行為でしかない。
一生オナニーしてろ)
作者にとって本当に有用な批評は、
作者がやろうとしたけれど、力足りなくて出来なかったことを理解して、
それを指摘してくれるものだけである。
それは、沢山の意見のノイズの中で、
ほんの一文しかない。
金を捨ててないかどうか、ということだ。
全ての周波数が混ざったノイズを、
ホワイトノイズという。
ラジオから聞こえるサーという音だ。
これは、光スペクトルが全部混ざると白色になることから来ている。
ノイズを沢山集めると白になる。
それは衆愚である。
あなたが見つけるべきは、金の意見である。
ネット時代になって、僕はノイズが増えただけではないかと考えている。
有用な意見でなく、ただの好み暴露だけが増えていったと。
建設的で批評的であることと、自分を押し付けることは、
僕は真逆であると考える。
つまり、ノイズは敵だ。
もちろん、受け手の反応は、正しく世間の反応だ。
ないがしろにするのではなく、
振り回され過ぎるのでない、
正しい距離感を掴むことだ。
2017年09月08日
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