ストーリーの本質ってなんだろう。
僕は、主人公が何かをのりこえることだ、
と定義してみる。
一般的には、
ストーリーとは、
問題があって、
それが最終的に主人公に解決されることを言う。
主人公以外が解決してはだめだ。
逆に、解決する人が主人公という定義で考えること。
もしずっと見ている人がいて、
その人が解決をせず、
別の人が解決して終わるのなら、
その別の人がその事件に関わるところからスタートすること。
そしてその人を追い、
その人が解決するところで終わること。
初心者の誤りは、
自分の出来ることから始めてしまうことで、
ラストありきの冒頭が正しく書けないことだ。
だからストーリーの背骨というのは、
5W1Hでいうところの、
「誰が」がひとつにならなくてはならない。
さて本題。
どうやって?
つまりHowにあたるところだ。
それを面白おかしく考えなければ、
ストーリーを創作したとは言えない。
ここのところが実は一番難しい。
背骨を作ったとしても、
この内蔵や血肉に当たるところが面白くないと、
面白いストーリーとは言えないからである。
ここでようやく本題。
そのどうやって、の本質はなんだろう、
ということ。
僕は、「のりこえる」ということを中心に考えるとよいと思う。
シドフィールドは、障害という言い方をしている。
だけど僕にはこの考え方だと足りないと思った。
障害の設定だけでは、ストーリーを書くことは難しかった。
たしかに発想の糸口にはなるけれど、
それよりも書くべき中心は、「のりこえる」だと思うんだよ。
「のりこえる」は、ワンセットだ。
障害と、
それを回避せずにのりこえようという意志(目的、動機)と、
その乗り越え方と、
結果(成功、失敗、第三のやり方、
あるいは全成功ではなく次に課題が残り、
それが次の障害になる)が。
障害、というイメージは、障害だけがそこにあり、
それをどう料理していいか途方にくれる。
のりこえる、というイメージだと、
のりこえる様をイメージしやすい。
サーフィンを、
大きな波や強い波や予想を外れた波、と考えるか、
様々な波を機転で捌いて美しい光景を見る、
と考えるかの違いだといえる。
障害は、分析のための言葉で、
のりこえる、は発想を練るための言葉だと、
僕は思う。
主人公は、のりこえる。
一回や二回じゃない。
15分に一回はね。
小さなのりこえでもいい。
処理レベルでもいい。
しかしいずれ、自分が出来るかどうか不安になるくらいの、
のりこえをしなくてはならない。
解決を目的とするならば、
いくつかののりこえを経験しない限り、
そこにはたどり着けない。
何故なら処理でよいなら、15秒で話が終わるからだ。
これはCMの話法である。
CMとは、人間が知恵と工夫で乗り越えるべき困難を、
素晴らしい商品でショートカットするというストーリーである。
一人でのりこえなければならないこともある。
協力者とともにのりこえなければならないこともある。
あるいは人間関係のゴタゴタをのりこえなければならないこともある。
法律の網目を潜ってのりこえなければならないこともある。
あるいは自分の弱点、弱い心、疑心暗鬼、トラウマ、恐怖心などを、
のりこえなければならないこともある。
なんのために?
問題を解決するために。
それがストーリーである。
それをのりこえなければならない、
と覚悟させるのは、
どうしても解決したい、しなければならない、
という強い目的意識、動機が必要だ。
そうじゃないと、
主人公はのりこえるのをやめて、
家へ帰ってしまう。
どうしても解決したい思い。
それは序盤で組まなければならない。
中盤はのりこえを沢山描き、
終盤は最大ののりこえと、
これらののりこえ達がどんな意味があったかを、
描かなくてはならないからだ。
一個のりこえてしまったから、
他ののりこえもやらなくてはならなくなった、
という乗りかかった船パターンもあるけれど、
だとしても、
本気で次以降をのりこえるには、
主人公自身の内側と関係する何かがないと、
なかなか人というのはリスクを冒さないものだよね。
(冒頭でツカミをするパターンでは、
第一ターニングポイントで、
主人公自身の内側に関係する何かがあり、
それが強い動機になることが多い。
ドラマ風魔の5話の小次郎の最後のセリフはその秀逸な例だ)
そこにリアリティーがあればあるほど、
強い動機というのが生まれ、
話は面白くなるんだ。
動機はリアルなほうがいい。
のりこえは、フィクショナルに誇張するのがいい。
それがフィクションの面白さだ。
フィクションは、のりこえを戯画として楽しむものだ。
2017年10月31日
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