何故最近の映画の脚本は詰まらないのか?
複数の人間が関わることが根本的な原因になることが多い。
複数の人間が関わると、
一見、一人の人間の狭い見方を補完し、
気づかなかった欠点を修正できるように思うだろう。
しかし現実は理想通りにいくことは滅多にない。
複数の人間が口を出す現実の場は、
大抵マウントの取り合いになるからだ。
表現をすることは気持ちいい。
たぶんそれが原因だ。
ある脚本がまな板の上に乗せられて、
それが微妙な出来で、
どうにかして改変して解決しなきゃいけない状況にあるとき、
複数の人が色んな意見を言うことになる。
しかしそれは妥当かどうか、検討されない。
なぜなら、「アイデアを思いつくこと自体が気持ちいい」からである。
人間は0から何かを100まで作ることは困難である。
だが、ある程度出来ているものに乗っかるのは簡単だ。
意見を言うことは、
つまりは下駄を履いた状態で、
気持ちいいことを連発することに等しい。
勿論、作品の本当に目指す方向性を理解して、
こういう骨格であるべきとか、
これが足りないとか、
これが余計だと、看破出来る目があれば別だ。
しかし、複数の人間が関わる、
現実のそのような意見集約の場は、
全員がその読解力があるとは限らない。
だから、
「自分の好みのもの」になるような意見を言う。
自分の好みのものになるのは気持ちいいし、
自分の好みのことを言うのは気持ちいいからである。
イマイチなんだから、少しでも良くなるだろ、
と意見した当人は気持ちいい。
しかしそれは局所最適解にすぎず、
全体最適解でない可能性の方が、
経験上高い。
部分解であり、全体解でないことのほうが多い。
(全体解かどうかが、本来の判断基準だ。
そもそも部分的に良くないだけなら、
一回リライトすりゃ、ましになる)
さらに問題は、
ここからが本題なのだが、
複数の意見集約は、
マウントの取り合いになるということである。
つまり、偉い人の意見が通る。
あるいは、自分の利益確保を、意見を通すことで、
小さく確保する輩が出てくる。
分かりやすいのは、
「出番や台詞を増やして」という俳優事務所の要求だ。
ついでに、
「うちの○○を使うなら△△も使ってくれ」
(バーター)もそうだ。
勿論、これが作品の質を上げることに寄与すれば、
素晴らしい申し出だ。
△△という新しい才能が内容を良くするかも知れない。
しかし実際のところは、
某俳優が出る主題歌は同事務所の、
映画内容となんの関係もない歌が流れることが、
とてもよくあることだ。
つまりそれは、その事務所は得するが、
全体は得していない、局所最適解にすぎない。
こうして、部分的な勝利だけを目指す奴に、
全体は削られ続けているといっても過言ではない。
全体とは何か。
それは観客の満足だ。
部分的な満足ではなく、全体としての満足だ。
つまり、テーマが妥当であり、
そこへ至る道筋が興味深く、エキサイトし、
感動的で、まとまりがある、心に深く刻むべき、
一つの作品として、
満足するかどうかである。
局所最適の意見を聞いた脚本は、
テナントだらけの雑居ビルと一緒だ。
雑然としていて、そのパートはそうかと思っても、
全体で見ると統一感がなく、
「そのビルが何のために存在しているか分からない」。
勿論雑居ビルの、ビル全体としての目的は、
「金儲け」であり、「土地が余ってるから有効活用」
だろう。
つまり、雑居ビル的な脚本とは、
余ってるからやってるだけの、金儲けであるわけだ。
作品性とは、なんの関係もないということになる。
複数の人の口出しは、
たいていこのような、「利益の取り分」の戦いになる。
更に厄介なのが、
「偉い人の意見は正しい」という、
逆の子分主義だ。
広告でよくあることだが、
これまでずっと担当とやってきた作品が、
役員試写でひっくり返ることがある。
そもそもネゴシエーションできていないその担当も問題があるが、
「○○さんにこう言われたので、
その意見を反映してください」と、
何も返さずにこっちに丸振りしてくることは、
我々の日常茶飯事だ。
勿論、その意見が作品性を上げるのであれば、
我々も血道を上げて修正する。
しかし大抵は、「俺のいうことを聞け」
というマウンティングにすぎない。
まだ若い監督だったころ、
俺があまりにもいうことを聞かない
(作品性を下げる意見は却下)していたら、
「俺のいうことを聞け」とストレートにイライラしたプロデューサーがいて、
ああ、こいつは自分の言うことを聞かせたいだけなのかと、
内心馬鹿にした記憶がある。
作品を作っているのではなく、
言うこと聞く大会をしているのだと。
広告の仕事はスポンサーありきだから、
上の言うことは絶対か?
僕はノーだと考える。
馬鹿なことを言って作品性を下げるのは、
スポンサーへの背信だからだ。
おっしゃることは理解しました、
しかしこのような理由で作品性が下がりますが、
それにお金を払いますか?
と聞ける人間がいればいい。
僕がやりたいが、どうも人前に僕をだしたくないらしい。
あるいは、更に厄介なのは、
「○○さんが△△と言いそうだから先に直せ」
という指示だ。
いや、言うてから直せばええやんけ。
そもそもその△△が作品性を落としてるのに、
なんで最初から負けにいくのや。
それが○○さん不在の編集の場で行われるのに、
僕はずっと納得がいっていない。
そもそも△△なんて最初から聞いてないし、
そうだとしたら全く別のコンテにしていたかも知れないというのに。
結局、作品性を上げることにではなく、
言うこと聞く大会で、誰が優勝するかを決めている。
言うこと聞かない僕は、
作品性を守る代わりに、その大会ではビリである。
そのようなことを全て分かった上で、
マウンティングのゴリ押しをしてくる、
権力者もいるから、
全く魑魅魍魎だらけだ。
さらに、この先のことで、
実はこれが最も深刻なことなのだが、
作品性というものについて、
全員がバラバラの見解のことが、
とても良くあることだということを知っておくべきだ。
自分の大事にしているところ、捨てているところが、
他人のそれと違うことがあるということだ。
これをシミュレーションするのは簡単で、
友人と映画談義をすれば一発でわかる。
お前分かってねえな、と最後には呆れて終わるはずである。
こんな複数の人たちが、
マウンティングのために、
脚本に意見を言う。
それがプロの現場の惨状を、
まずは知っておくこと。
これに対する一番の回答は、
そもそもイマイチな脚本を書かないことだ。
文句の出ない、オリジナルの、感動や心震えるホンを書け。
2018年01月12日
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