そもそも現実において人間関係に問題があるときは、
考え方や目的が違うことによって生じている。
それが表面から分からない場合もあるし、
突き詰めればそうだったのかと判明することもある。
現実の鏡であるところのフィクション的物語でも、
同じことが起こる。
コンフリクトである。
コンフリクトは、
誤解を恐れずに言えば「争い」である。
もう少し緩くすると、
「揉め事」「摩擦」だ。
ただしフィクションというのは、
物事を大げさに強調するので、
摩擦は揉め事に、
揉め事は争いになるように、
振幅を大きくして面白くして行く。
現実にありそうな微妙なのはなくて、
なるべく振り幅を大きくするものである。
勿論、バタ臭すぎるのは嫌だから、
微妙なリアリティを狙うものがあってもよい。
それは大抵文芸大作などと呼ばれ、
わかりにくいとして敬遠される。
わかりやすくするため、
より面白くするための強調である。
強調は戯画化(カリカチュア)であり、
ブラックユーモアであるが、
パターン化やマンネリ化でもあることに注意されたい。
同じことを同じように戯画化していては飽きられる。
で。
コンフリクトのない物語はない。
あるとしたら、
「僕はこう思う」「よしそうしよう」
「うまくいった!」「ばんざい!」と、
話は5秒で終わってしまう。
その最たるものはCMだ。
15秒で終わらなければいけないから、
他人との摩擦や争いを描いている暇がないものだ。
せいぜい、内面の自分との争い、
心の中の争い程度であろう。
コンフリクトは、
味方とも起こるし、敵とも起こる。
味方だと思っていたが突き詰めると呉越同舟であることが分かるとか、
そもそも敵は主人公を排除しにくる。
これらを、
「間のアレコレ」の部分でやると、
ストーリーに厚みが出て、
より複雑になる。
ストーリーのエンジンはコンフリクトである、
という格言もあるくらいだ。
で。
コンフリクトの根本を考える。
その原因は、
結局は考え方の違いで生じる。
同じ人間というカテゴリーなのに、
人によって正反対に考えることがあるものだ。
それはどういうものか、
リアリティあるものを用意できるかは、
人生経験の差になってくるかもしれない。
つまり、
複数のキャラクターを用意したとき、
各自で、
「何の為になら命を賭けられるか」が違うということである。
そして、違うが故に、
どうしても理解しあえないのだ。
信条や哲学。
出身による考え方の差。
兄弟姉妹による考え方の差。
人種による経験の差。
クラスタや階級による差。
好み。
酷い目にあった経験の違い。
自信。
性格をわざと入れなかった。
性格による差よりも、
上にあげたものの方が、
面白い話が作れるからだ。
「それを先入観だと気づけば、
考え方を変えることができる」
可能性があるからである。
そういう、
異なるふたつを作れると、
メインのコンフリクトを作ることが出来るだろう。
試しに、
「お好み焼き定食を認める/認めない」の二人のキャラクターを設定して、
呉越同舟の現場をつくろう。
彼らは摩擦を起こし、
絶対に相手を認めなくなる。
そして自分の主義を通す為に、
命すら賭けるかもしれない。
さらに和解するとすればどういうことだろうか、
と考えてみるのもトレーニングになるだろう。
敵同士に設定してもよいし、
カップルに設定してもよい。
喧嘩の火種を作るのは簡単だ。
このような、
正解のない問いを真ん中に立てれば、
勝手に喧嘩が起こるわけだ。
世の中によくある奴から最初は拾ってくればよい。
慣れてきたらそれすらも創作できるだろう。
そして、表面上は「お好み焼き定食を認める/認めない」
で現れる喧嘩も、
深層心理にあるもっと根本的な何かの表れに過ぎないことがわかり、
完全に決裂してしまうことを描くことができる。
その、
答えのない問いに対して、
明確に違う立場や深層心理の、
二人ないし複数のキャラクターを作り、
彼らは自分の考えに関しては命を賭けられるように作ると、
コンフリクトが激しい火花になるだろう。
時に相手を殺しにかかるかもしれない。
それが、物語の表面で、または深層で、
起こっていることである。
そのコンフリクトは分かりやすいか?
つまり論点がはっきりしているか?
それが焦点がはっきりしているということ
(の一部)だ。
それをなおざりの設定ではなく、
感情移入(共感ではない)を持って、
その争いが見れているかが、
面白い話かどうかの分かれ目だ。
2018年07月05日
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