自己という宇宙は厄介だ。
「あなたは誰か?」に簡単に答えられる人はなかなかいない。
就職活動とかお見合いなんてのは、
全て「あなたは誰か?」に答え続ける、
わりとつらい旅だろう。
でも、他人の「あの人はどういう人?」には、
わりと(無責任に)答えられる。
それは、その人の「外に出ているもの」に材料があるからだ。
一方、自分の時だけは、
「外に出ているものではない、内なる本当の私」を
見定めようとするから大変なのである。
何がいいたいかというと、
一人称と三人称だ。
人はあなたを三人称で見ている。
あなたの一人称で見ていない。
簡単なことだ。
あなたも他人を、三人称で見ていて、
一人称で見ていない。
なのに。
作品作りにおいて、
そこを混同してしまう。
あなたは外に出ていない、
「内なる宇宙」を理解して欲しいのではないか?
それは無理な話だよ。
あなたが他人を、「外に出て来たもの」から総合して判断するようにしか、
他人はあなたを判断しないよ。
この、
「理解して欲しい」の齟齬こそが、
人間のややこしい部分ではないかと僕は考えているのだが、
まだうまく言葉には出来ない。
で。
あなたの書くキャラクターも同様だ。
他人は、つまりは観客は、
外に出たものでしか、
判断できない。
外に出たものとは、
発言、行動、表情や仕草、外見、服装だ。
そのうち脚本に書けるのは、
発言と行動のみだ。
あなたはこれだけで、
そのキャラクターを構成しなければならない。
教科書的には理解しているかもしれないが、
いざやってみると、
うまく書けてなくて、
書けてないところを突っ込まれると、
「本当はこの人は○○な性格で、
○○という裏設定があって…」と、
言い訳を始めたりすることがある。
じゃあそれを出しなさい。
出ていないものからは、判断できないからね。
それでもつまらない人間だってこともある。
外に出てるものからしか、
私たちは判断しないし、
判断できない。
割り切るのだ。
あなたの内なる宇宙は、
あなたの中にしかない。
あなたの作ったキャラクターは、
発言と行動からしか評価されない。
勿論、その中にあなたの内なる宇宙の一部を仕込むことは出来る。
しかし、あなたの作ってキャラクターは評価されても、
あなたの内なる宇宙が評価されるわけではない。
あなたは誰か?
に答えることは、本当に難しい。
しかし、そのキャラクターは誰か?には、
簡単に答えられる。
そうでなければ、三人称のストーリーとは言えない。
2018年07月05日
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