同じ釜の飯を食い、明日を共に語った(現在進行形でもあるが)、
後輩たちの配信映画ドラマ
(これらをドラマや映画のカテゴリに入れるべきかどうか迷うが、
とにかく映像で語られたストーリー)が配信中だ。
オンエアやオンスクリーンじゃなくて、
オンストリーミングとかオンネットとかいうのだろうか。
「東京彗星」U-NEXT
「うつヌケ」hulu
後輩だからといって手心を加えずに批評する。
以下ネタバレ。
どちらも予算がない中工夫を沢山しているのはわかる。
志に対して予算規模が見合ってないから、
少々勿体無い。
しかしこのクラスをある程度のクオリティに上げないと、
次もないというのが今この業界の厳しい部分ではある。
「東京彗星」
クライマックスが分散してしまっている。
兄弟の絆と彗星をクライマックスに照準を合わせられないかと思った。
トラック野郎の過去は、
彗星衝突前に処理するべきたっただろう。
彼が岩手に来ていたのは家族の痕跡を探すため(あるいはレクイエム的行動、
または自暴自棄)だったはず。
だとすると出会ったときにその事に触れておいて、
東京に戻ったときにトラックを盗まれた奴に正体をバラされて、
揉めるひと幕があればなんとかなったかも。
そこから炊き出しへ繋げたはずだ。
二幕の整理が上手くいっていないから、
三幕に二幕でやるべきことが玉突きでやって来たのかもだ。
しかし、兄弟とトラック野郎の三人を等価に描いていると尺が足りなくなる。
この辺の「尺に対する軽重の選択」の塩梅は、
経験値でカバーするべきなのだが、
そこまで経験がないゆえの精一杯なのはしょうがない。
あと、衝突の瞬間は、
ヒキの点でいいから、
あるいは監視衛星のサーモグラフィーみたいな映像でいいから、
「直撃をそれた」が絵で分かるべきだと思った。
全体の焦点、時計はそれになっているからね。
全体を進める時計と、個々の焦点という二重構造になっているから、
それらの個々の焦点をしっかりドラマにすることが、
まだ足りていないと感じる。
「うつヌケ」
この作品も構成に問題がある。
全6話のバランスが悪い。
13456と2話を切って、新6を書くべきだったと思う。
12話の出来があんまりよくないんだよね。
スターターとしての位置付けはわかるが、
全体尺に対して長すぎた。
2話で切ってしまう人が多いと思う。
3話の出来が良かっただけに、そこが心配。
全体の出来は5話が一番良いので、
6話のスカしぶりを考えると、
「本当の締めの話」が欲しかった。
そうすると田中の話をきちんと語り、
ホストとしての個人話をするべきだと思う。
(監督本人から聞いた話では、
田中がドラマではその話をやりたくない、
やるなら映画でやりたいと言われたのだそうだ。
だったら田中を切るというのもプロデューサーの判断だし、
映画の雛形として今回作り、
いずれもっと大規模で映画化しましょうと説得するのも、
プロデューサーの仕事だと思う。
全体を俯瞰するのはプロデューサーの仕事であるべきで、
そこはぬるいと感じた)
12に比べて35が出来がいいのは、
感情移入しやすいという理由。
共感はどれもできるが、
感情移入に至っていない。
35は少なくとも前向きになろうとしているから、
そこが分かりやすかったのだろう。
鬱とはそれがなくなることだから、それも難しいと考える。
また、35が感情移入しやすい理由に、
「具体的モチーフを用いて話を構築している」がある。
総合格闘技、花屋、ポップなどの、
具体で物語化している。
これに比べて、
1話の社長の偏見、
2話の息子、
4話のモニタで自分を見る、
のは、記憶に残らない。
帰還のきっかけの、
「絵による象徴」もしくは「キラーワード」
がないと、
この短い尺ではつらいと感じた。
(てんぐ探偵においても、
心の闇が落ちる瞬間、どういうセリフを言うか四苦八苦してるからね)
あと4話は、
立ち飲み屋で働いている「いらっしゃいませ!」
で終わった方が良かったんじゃないか?
以下少し鬱のことについて。
鬱病の入門になるものなのか、
偏見の助長になるのか、極めて難しいラインだ。
あくまで鬱患者から見た話だから、
もう少し鬱病発症の機序に踏み込むべきだと感じた。
現在言われていることは、
自己承認欲求が満たされないとき、
否定され続けたとき、がある程度長く続いて、
しかも睡眠不足や身体の疲れが重なると、
発症しやすいということ。
心のダメージ、肉体のダメージ、どちらかなら回復できるし、
どちらも軽いなら両方回復することは人間には出来るが、
両方が限度を超えると脳が回復不能状態に陥る。
それが鬱やその他の精神病の、不可逆変化だ。
投薬や「休む」は、肉体の回復力で、
不可逆変化を自己治癒する力を応援するだけだ。
風邪薬が風邪を治すのではない。
治すのは自己治癒力であり、その環境を投薬や「休む」が、
整えるに過ぎない。
どのケースも、
鬱発症時点で「無理をしていて」、
睡眠不足がトリガーになった可能性が高い。
(そして心身が本当に疲れているときは眠れないものだ)
「うまく眠れていない」は2話でしか描かれていないので、
それが病気ものとしての社会的役割、啓蒙を果たせていないと感じた。
鬱は心の病気、
つまり「気持ちの持ちようで回復するから、気の弱い人がなるので、
腫れ物のように、頑張れるようになるまで見守る」
ではない。
外から見ればそれしか対処法がないのだが、
本人の脳の中では、
意識や人格を司る臓器が回復不可逆な損傷を受け、
自我が崩壊している状態で、(だからアルコール摂取禁止)
その自我が時々戻り懸命に回復しようとしている、
ということを示すことが、
今の社会に必要な啓蒙と考える。
筋トレが鬱に効くのは本当で、
血行が良くなり、代謝が上がるので、
血液が常に脳に行き続けるようになるからだ。
回復が早くなるんだよね。
だから3話の荒療治は、現代的回復法であるなあ、
と感心していた。
逆に4話のリワークは、「弱い人々が認め合う」
という古典的な「心の回復」で、
これだけでも偏見の助長に貢献する気がしたんだよね。
鬱は気の持ちようではない。
そして、「ここから鬱」「ここから正常」もない。
「社会生活を送る上でこれはちょっと無理」
が「障害」の定義なので、
「困難だが出来ないことはない」で踏みとどまっている軽度鬱は、
今の社会に沢山いる。
それには、ストレス発散
(焼肉、大食い、酒、大声を出す、カラオケ、運動、
などが良いとされる。趣味の没頭も良い)
して、ぐっすり寝るのが良い。
寝れないのがストレス過多の状態だから、
三日休みを取り、二日趣味で徹夜して爆睡する、
という荒療治だってある。
僕はそうしている。
一人で焼肉に行き、歌いながら帰る。家に帰ればタイピングだ。
昭和の、会社終わって飲みに行くのは、
無意識のストレス発散だったんだね。
そういう発症以前の戦い方を取材していないのが片手落ちで、
発症機序についてももう少し踏み込むべきだった。
本人体験記という視点では、
そういった社会的俯瞰の視点が足りない、
ということを、
これもやはりプロデューサーが判断するべきだと考える。
少し気になっていたのは、
「難しいテーマ」とプロデューサーも監督も言っていたことで、
やや思考停止を感じた。
取材で底つきまで行ってないだけだと思う。
鬱は「本人の意思に体がついてこないこと」であり、
「気分が塞ぎ込んでいること」ではない。
そろそろ鬱病という名称を変える時が来ると思う。
「神経伝達物質遮断症」とかにしたほうが偏見がなくなるかもしれない。
どちらも絵や音の出来は中々で、
機材の発達なのか予算がそこにかけられているのか、
羨ましくなってくる。
しかしそのガワに、まだ中身が追いついていない。
次回作を撮ることが厳しい昨今、
たくましく泳いで行かないとね。
俺も頑張らねば。


いつもブログの更新、本当にありがとうございます。
独学で脚本を学ぶ者にとってココは、荒波の向こうから届く灯台の明かりです。
さて、今回は監督の鬱に対する知識と理解の深さに驚いてしまいました。私は長らく鬱で苦しみ(今は双極性障害と診断されています)、なんとか社会復帰して、新たな希望に向かって生きています。そんな私が、「この通りだ。間違いない」と思うような鬱についての情報が書かれていました。しかも、内側(体験者)から見た世界だけでなく、それを取り巻く外側(身内、社会)の世界も網羅されていると感じました。
「やや思考停止を感じた。
取材で底つきまで行ってないだけだと思う。」
とある通り、鬱やそれを取り巻く環境について取材で底付きまで行ったからこその見識なんでしょうか?
私は脚本に取り組むときに、ネットでの検索を主に取材源としていて、あまり本も読みませんし、人から話を聞いたりもしていません。それで“足りる”と思っている節があって、それはやはり「思考停止」「取材で底付きしていない」状態なのだと思います。
監督は脚本執筆における取材について、どの程度重視されていますか?
また、私どものような素人脚本家が身につけるべき取材力とは、どのような様態でしょうか?
ご教示いただけましたら幸いです。
鬱に関しては、身近なメンヘラのこともあるし、
自分の体験談もあります。
僕は多分自閉症スペクトラムかギフテッドあたりだと思うので、
(幼少期のIQが180で、共感覚があり、写真記憶などもできるので)
なんでこうなんだろうと思って調べたことが入っていると思います。
あと最近強ストレスの仕事があって、
「脳の働きが鈍い/回復」の経験をしたからもありますね。
医者にいけば診断されてたかも知れません。
社会生活さえ送れれば大丈夫なので、自力でなんとかしてた感じです。
まあ肉と睡眠と運動ですね。
気づかずに倒れるのが一番良くない。
取材に関しては、
ネットで調べることは大前提です。
専門書は体系的なのでいいんですが、
間違った専門書を手に入れてしまうこともある
(こちらが無知なため)なので、必ず書店で読んでから買います。
立ち読みで殆ど読んで、忘れないために買う感じ。
アマゾンは外れますね。
映画と同じで、手に取ると当たり外れはなんとなくわかるようになります。
あとやっぱり現場へ行くことです。
その場の空気、雰囲気、人、食べ物や酒、
そういうものを体験しないと、
「その発想で生きている人」を前後左右外内から書けないと思います。
「小説の取材です」というと、
大抵の人は何かは言ってくれます。
(悪質なライターのやり方でもあるので乱用禁止)
そこに至るために、先にネットのこともあるし、
現場→ネット→現場と繰り返すのも良いと思います。
ちなみに物理学者ファインマンの言葉。
「本当に理解したということは、
少なくともふた通りの説明ができること」
同じことを別の角度からも描けるようになるのが良いと考えます。
「立体的な理解」というと簡単ですが。