2018年12月02日

体で判断する

僕はある程度の共感覚をもっているので、
あんまり一般的ではない感覚かもしれないけど、
「ストーリーを体の感覚で感じる」
という感覚を持っている。
それは、リライトなどに生かせることがある。



どういう感覚か言葉に表現することが難しいが、
「道順を移動した記憶」
のようなものが近いかもしれない。

五感で言うと触覚に属するんだろうが、
ふわふわしているとかごつごつしているとかではなく、
「ここからここに移動した感覚」
というのが近いかもなあと思う。

もちろん、途中で曲がったり、
道が不明瞭で不安になったり、
景色が開けていたなあなんてのも、
視覚や聴覚ではなく、体の感覚で覚えていたりする。

これは動物が道や地図を覚える能力なのだと思うが、
全員にある感覚かはわからない。

でもまあ、目を瞑って、
家から会社や学校への道筋を移動してみる感覚、
というと、なんとなくは分るかもしれない。
あるいは、
「いま住んでいないが、昔住んでいたところを頭の中でうろうろする感覚」
なんてのもそうだと思う。

これがストーリーの感覚に近い、
ということは、
ストーリーは道や地図の感覚に近いのかもしれない。
(途中で曲道や分岐や、気持ちや目的地があり、
ゴールがあるという点において)

あんまりこういう話は脚本の教科書には載っていないが、
誰しもあるような感覚だと思うんだがなあ。


さて。これがある前提で考えると、
「リライトは、触覚でやる」
ということを言えそうな気がしている。

ここにこれを挿入するとややこしくなるとか、
ここでこれを切ると道に迷うとか、
ここでこの感覚があるから気持ちいいのにとか、
ここを切るとジャンプがあり、逆にわくわくするぞとか、
ここから分岐させても大勢に影響はないとか、
全体を俯瞰したときに、このリライトは全体を気持ちよくするのか、それとも退屈にするのか、
そういうことが、
体感覚で事前に判断できるようになる。

もちろん、自分のストーリーが「体に入っている」
ことが前提だけど。

で、そういう体感覚で判断して、
そのリライトがよくなると直感しても、
書いたものがそうなっていないなら、
そうなるようにリライトをやり直すべきだ、
なんて判断も出来るようになる。

理屈ではなく、体感覚の気持ちよさでだ。

(理屈は、このような体感覚の気持ちよさを必須の前提としない。
理屈があっていればOKという、とても形式的なものである。
保険の契約がややこしいのは、形式的理屈でやっているからで、
体感覚の気持ちよさを軽視しているからだ。
同様に、数学の形式的な理屈がある。
だからほとんどの人は数学が嫌いだ。
特別な一部に、数学でも体感的美しさを追及している場合があり、
それをエレガントということがある。
たとえばオイラーの公式はとてもエレガントだ。
複素平面とπとeに一直線の橋渡しをしている)


もちろん、
書いているときは、グネグネとやっているんだけど、
俯瞰で見たときにそういう体感覚で見ると、
「この道筋は気持ちがいい」とか「よくない」とかが、
なんとなくわかるようになる。
あるいは、
「ここが足りない。理想ならこういう感覚になるのが最高」とか、
「これさえなければ、最高の感覚になるのに」
ということも分かるようになる。

わからないのは、体感覚でやっていないからかもなので、
僕だけの感覚だったらごめんなさい。

でも絵のバランスを取ったり、音のバランスを取ったりすることと、
似たような感覚だと思うけどね。
(そのために、膨大に名作を見て、感覚として磨いておくのだ)
posted by おおおかとしひこ at 13:27| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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