僕はある程度の共感覚をもっているので、
あんまり一般的ではない感覚かもしれないけど、
「ストーリーを体の感覚で感じる」
という感覚を持っている。
それは、リライトなどに生かせることがある。
どういう感覚か言葉に表現することが難しいが、
「道順を移動した記憶」
のようなものが近いかもしれない。
五感で言うと触覚に属するんだろうが、
ふわふわしているとかごつごつしているとかではなく、
「ここからここに移動した感覚」
というのが近いかもなあと思う。
もちろん、途中で曲がったり、
道が不明瞭で不安になったり、
景色が開けていたなあなんてのも、
視覚や聴覚ではなく、体の感覚で覚えていたりする。
これは動物が道や地図を覚える能力なのだと思うが、
全員にある感覚かはわからない。
でもまあ、目を瞑って、
家から会社や学校への道筋を移動してみる感覚、
というと、なんとなくは分るかもしれない。
あるいは、
「いま住んでいないが、昔住んでいたところを頭の中でうろうろする感覚」
なんてのもそうだと思う。
これがストーリーの感覚に近い、
ということは、
ストーリーは道や地図の感覚に近いのかもしれない。
(途中で曲道や分岐や、気持ちや目的地があり、
ゴールがあるという点において)
あんまりこういう話は脚本の教科書には載っていないが、
誰しもあるような感覚だと思うんだがなあ。
さて。これがある前提で考えると、
「リライトは、触覚でやる」
ということを言えそうな気がしている。
ここにこれを挿入するとややこしくなるとか、
ここでこれを切ると道に迷うとか、
ここでこの感覚があるから気持ちいいのにとか、
ここを切るとジャンプがあり、逆にわくわくするぞとか、
ここから分岐させても大勢に影響はないとか、
全体を俯瞰したときに、このリライトは全体を気持ちよくするのか、それとも退屈にするのか、
そういうことが、
体感覚で事前に判断できるようになる。
もちろん、自分のストーリーが「体に入っている」
ことが前提だけど。
で、そういう体感覚で判断して、
そのリライトがよくなると直感しても、
書いたものがそうなっていないなら、
そうなるようにリライトをやり直すべきだ、
なんて判断も出来るようになる。
理屈ではなく、体感覚の気持ちよさでだ。
(理屈は、このような体感覚の気持ちよさを必須の前提としない。
理屈があっていればOKという、とても形式的なものである。
保険の契約がややこしいのは、形式的理屈でやっているからで、
体感覚の気持ちよさを軽視しているからだ。
同様に、数学の形式的な理屈がある。
だからほとんどの人は数学が嫌いだ。
特別な一部に、数学でも体感的美しさを追及している場合があり、
それをエレガントということがある。
たとえばオイラーの公式はとてもエレガントだ。
複素平面とπとeに一直線の橋渡しをしている)
もちろん、
書いているときは、グネグネとやっているんだけど、
俯瞰で見たときにそういう体感覚で見ると、
「この道筋は気持ちがいい」とか「よくない」とかが、
なんとなくわかるようになる。
あるいは、
「ここが足りない。理想ならこういう感覚になるのが最高」とか、
「これさえなければ、最高の感覚になるのに」
ということも分かるようになる。
わからないのは、体感覚でやっていないからかもなので、
僕だけの感覚だったらごめんなさい。
でも絵のバランスを取ったり、音のバランスを取ったりすることと、
似たような感覚だと思うけどね。
(そのために、膨大に名作を見て、感覚として磨いておくのだ)
2018年12月02日
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