昔々あるところに。
かつてあったことなのだが。
証言によると。
時代劇や中世や西部劇。
あるいは60年代から90年代も時代劇として。
物語は、なぜ過去を取り扱うのか?
様々な制約を取っ払うためだ。
最近よくきくのが、「今は出来ないけど」だ。
昔はテレビでオッパイボローンだった。
昔は教師は生徒を殴り、体罰は当たり前だった。
昔は下ネタ言い放題で、女は黙ってろと言えた。
今は出来ないけど。
出来なくなったことが増えて、
現代は窮屈になってしまったとみんな思っている。
それを解消するには、
出来た頃の話にするといい。
今は出来ないけれど、昔はおおらかでよかったなあ、
と、みんなが安心できることが増えるわけだ。
(勿論ものごとにはいい面と悪い面がある。
体罰やオッパイボローンにも悪い面はあるだろう。
ただしそれをなかったことにしてはならない。
過去はなかったことではない)
今は出来ないのならば、出来た時まで時計を戻せばいい。
そのために過去のある時を舞台にすることはよくあることだ。
逆にいうと、
過去を扱うのは、
社会の制約条件を変えるためなのだ。
ケータイのない時代を舞台にすれば、
待ち合わせがとても難しくなり、
すれ違う障壁を作ることができる。
体罰の制約がなければ、
殴ったことで始まる仲直りのストーリーもつくれる。
制約を足したり引いたりするために、
時代を選ぶのだ。
逆にいうと、
ストーリー作りのための制約を意識し、利用できるだけの、
実力が必要だ。
江戸時代はみんなおおらかに暮らしていたかも知れないが、
病気や怪我ですぐ死ぬし、治療法はないし、飢饉も起こる。
移動は禁じられているし、村社会が強い。
(村八分の恐ろしさと、
村にさえ溶け込めていれば身内扱いしてくれる安心の、
二律背反がある)
現代はすぐは死なないが、孤立して炎上してやり直せない。
どの時代の制約が、あなたの書く物語をより面白くするか、
でしかない。
80年代がビジュアル上面白いから80年代を描くだけでは、
80年代のイケイケやネアカネクラの世界観の制約を無視してしまう。
それは「おかしい」となるわけだ。
中世ヨーロッパを舞台にするからには、
ドラゴンクエストだけをソースにせず、
実地の歴史書その他で、空気感や時代の制約を調べておくことだ。
その時代の人がその制約なら、
当然することやしないことを、
しなかったりすることは、
その時代においてありえないことで、
それはその時代であることに嘘をつくことになる。
その時代の制約を利用しないと、
その時代に設定している意味はない。
バックトゥザフューチャーは、
80年代だから成立しているものがある。
彼女が「電話してね」とチラシにメモをするシーンだ。
これは重要な伏線になるのだが、
「電話番号を紙にメモする」時代でないと成立しない。
今ならスマホに入っているし、
スマホにメモを取ってしまうだろう。
「チラシを何気なく裏返して、裏の印刷に気づく」を使えないことになる。
今の時代が息苦しいから、
もっとおおらかな時代を舞台にするのはたいへん結構である。
しかしそれはその時代の制約を受けることを忘れないことだ。
じゃあ、どの時代のどんな制約を利用して、
ストーリーを作り上げるのか?
というところが重要になってくる。
それはストーリーと腕次第になるだろう。
勿論、過去に限らなくてよくて、
架空の未来にすることもできて、
それをSFというだけのこと。
そこには新しい制約があるはずで、
その新しい制約でストーリーを作る思考実験でもあるわけだ。
で。
過去のどこかの遠い時代にストーリーを飛ばすと、
遠い国の遠いストーリーになる。
ここで感情移入を思い出そう。
感情移入は遠い人にも起こるのであった。
そして感情移入は、
「遠い人に自分と同じことを見つけた」ときに起こる。
つまり、遠い過去の全く違う制約の中ででも、
人間の本質的な物語を書けば、
感情移入に至ることができる。
いつの時代でも人は時代の制約を受けながらも、
懸命にそれをかいくぐっていたのだと分かれば、
感情移入にいたる。
これが「物語は時を超える」ことの根拠である。
2019年08月02日
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