2019年08月02日

物語はなぜ「過去の話」なのか

昔々あるところに。
かつてあったことなのだが。
証言によると。
時代劇や中世や西部劇。
あるいは60年代から90年代も時代劇として。

物語は、なぜ過去を取り扱うのか?

様々な制約を取っ払うためだ。


最近よくきくのが、「今は出来ないけど」だ。

昔はテレビでオッパイボローンだった。
昔は教師は生徒を殴り、体罰は当たり前だった。
昔は下ネタ言い放題で、女は黙ってろと言えた。

今は出来ないけど。

出来なくなったことが増えて、
現代は窮屈になってしまったとみんな思っている。
それを解消するには、
出来た頃の話にするといい。

今は出来ないけれど、昔はおおらかでよかったなあ、
と、みんなが安心できることが増えるわけだ。

(勿論ものごとにはいい面と悪い面がある。
体罰やオッパイボローンにも悪い面はあるだろう。
ただしそれをなかったことにしてはならない。
過去はなかったことではない)


今は出来ないのならば、出来た時まで時計を戻せばいい。
そのために過去のある時を舞台にすることはよくあることだ。

逆にいうと、
過去を扱うのは、
社会の制約条件を変えるためなのだ。

ケータイのない時代を舞台にすれば、
待ち合わせがとても難しくなり、
すれ違う障壁を作ることができる。

体罰の制約がなければ、
殴ったことで始まる仲直りのストーリーもつくれる。

制約を足したり引いたりするために、
時代を選ぶのだ。


逆にいうと、
ストーリー作りのための制約を意識し、利用できるだけの、
実力が必要だ。

江戸時代はみんなおおらかに暮らしていたかも知れないが、
病気や怪我ですぐ死ぬし、治療法はないし、飢饉も起こる。
移動は禁じられているし、村社会が強い。
(村八分の恐ろしさと、
村にさえ溶け込めていれば身内扱いしてくれる安心の、
二律背反がある)

現代はすぐは死なないが、孤立して炎上してやり直せない。


どの時代の制約が、あなたの書く物語をより面白くするか、
でしかない。


80年代がビジュアル上面白いから80年代を描くだけでは、
80年代のイケイケやネアカネクラの世界観の制約を無視してしまう。
それは「おかしい」となるわけだ。

中世ヨーロッパを舞台にするからには、
ドラゴンクエストだけをソースにせず、
実地の歴史書その他で、空気感や時代の制約を調べておくことだ。

その時代の人がその制約なら、
当然することやしないことを、
しなかったりすることは、
その時代においてありえないことで、
それはその時代であることに嘘をつくことになる。

その時代の制約を利用しないと、
その時代に設定している意味はない。


バックトゥザフューチャーは、
80年代だから成立しているものがある。
彼女が「電話してね」とチラシにメモをするシーンだ。
これは重要な伏線になるのだが、
「電話番号を紙にメモする」時代でないと成立しない。
今ならスマホに入っているし、
スマホにメモを取ってしまうだろう。
「チラシを何気なく裏返して、裏の印刷に気づく」を使えないことになる。


今の時代が息苦しいから、
もっとおおらかな時代を舞台にするのはたいへん結構である。
しかしそれはその時代の制約を受けることを忘れないことだ。

じゃあ、どの時代のどんな制約を利用して、
ストーリーを作り上げるのか?
というところが重要になってくる。
それはストーリーと腕次第になるだろう。

勿論、過去に限らなくてよくて、
架空の未来にすることもできて、
それをSFというだけのこと。
そこには新しい制約があるはずで、
その新しい制約でストーリーを作る思考実験でもあるわけだ。



で。

過去のどこかの遠い時代にストーリーを飛ばすと、
遠い国の遠いストーリーになる。
ここで感情移入を思い出そう。
感情移入は遠い人にも起こるのであった。
そして感情移入は、
「遠い人に自分と同じことを見つけた」ときに起こる。

つまり、遠い過去の全く違う制約の中ででも、
人間の本質的な物語を書けば、
感情移入に至ることができる。
いつの時代でも人は時代の制約を受けながらも、
懸命にそれをかいくぐっていたのだと分かれば、
感情移入にいたる。

これが「物語は時を超える」ことの根拠である。
posted by おおおかとしひこ at 07:24| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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