2019年08月17日

これは、何を書こうとしている話なのか

そのことは常に意識しておくことだ。

具体と抽象にそれは分けられる。


具体に関してはすぐに答えられるはずだ。

○○のカッコいい部分を描くのだとか、
どんでん返しのこの瞬間とか、
ワクワクするここの部分とか、
ここでこう思ってからのここまでの流れとか、
このサブプロットとこのサブプロットの対比の妙とか、
このセリフに込められた思いの深さとか、
上手いこと言った感とか、
ストーリー自体の面白さとか、
他にない感じのこととか。

書こうと思うことと、実際に書けたかどうかは、
全く別のことなので、
書こうと思ったことが書けるまで、
必死に書くといいだろう。

また、書こうと思っていなかったが、
書いてみたら予想外に書けたこともあって、
それは一種の奇跡なので、
大事に取っておくといいだろう。
(リライトの時断腸の思いで捨てることになるケースもある)

これらを全て含め、
良い具体を沢山上げられるようになっておくべきだ。

それがまだ完成していない時、
「何を書こうとしてるのか」は、
プロットにメモだけがある、
まだこの世にない形をしている。

執筆とはそれに受肉させることであり、
そして頻繁に「何を次に書くべきか」を見失う。
それは当然のことで、
プロットにはどうやって受肉させるべきかまで書いていないからだ。
事前に全部書けるならプロットいらないからね。

事前に計画したおおまかな設計図を眺めながら、
執筆とは受肉させていくことである。
大体決まっている具体を、
もっと詳細な、実装レベルの具体に書き換えていく行為だ。

だから「どのような具体的な○○か」は、
その場で考えながら書いていかなければならない。
(だから骨が折れる)

その時、
こういう具体を書こう、
というプロットから立体的に起こす、
受肉計画書みたいなものをメモとして残して置いてもいい。

ここは凄くワクワクする、
驚愕のどんでん返し、
甘いムードに、
大爆笑、
ここからここまでは息をもつかせぬ怒涛の展開、
などなど、
「観客の気持ちや焦点」
をたとえば赤字でメモっておくのは、
いい具体を生み出すためのメモである。

そういう風に出来上がっていれば、
その具体はOKである、
というOKの基準のようなものだ。

いわば自分へのハードル上げなのだが、
ストーリーがそれを要求しているのなら、
それを書けるまで粘るべきだと思う。



ところで、
これらは具体的な「何を書こうとしているのか」であり、
もう一段上の抽象レベルで、
「この話は、
これらの具体を通じて、
一体全体で何を書こうとしているのか」
があるわけだ。

それをテーマということは沢山議論してきた。


「天気の子」にはそれが希薄だった
(あえて言えば、
この世界には僕と君がいて、
世界はまあどうでもいいや君が好き、
程度のこと)。
「ドラゴンクエスト/ユアストーリー」は、
皆が期待した「悪いゲマは滅びるべきであり、
世界を救い、正義を成すことの困難さや偉大さ」
ではなく、
「大人になれよ」だったからみんな怒っている。


面白い具体は沢山書くべきだ。
しかしそれが結局何なのか?
は、常に意識しておくべきだ。

具体的な、
逆さまになったホウキの描き方を考え、
そのディテールを詰めていくことと、
結局それが「はよ帰れ」を意味していることのようなものだ。

具体と、それをまとめた抽象のレベルは、
別のレイヤーにいる。


これは、書く前に考えておかなければならないことである。


「天気の子」の具体を書く前に、
これは結局「世界よりも君が好き」という、
どうでもいい話ではないかと気付いて修正すべきだし、
ドラクエを書く前に、
これは大人になれよという話ではなく、
勧善懲悪の話であるべきだ、
と修正すべきである。

それは結局、
事前に「で、これって全体でどういう話になるんだっけ?」
を見通しているかどうか、
ということなのだ。


それは、プロットの芯が出来た時に、
実はすでに決まっている。

「天気の子」では、
晴れ女=巫女と、天空世界の人柱を助け出す、
が出来た時に決まったはずだ。
助けだしたら世界は雨に包まれるはずで、
「それと引き換えにするくらい君が好きだという、
純愛を描くのです」
という覚悟を持って作られた話ではなかったのは、
見たとおりである。
自分自身の力ではなく、拳銃の力を借りたわけだし。

「ドラゴンクエスト」では、
終盤の○○展開(一応伏せ字)が出来た時点で、
これは本来のドラクエのテーマではないから却下である、
と誰かが止めなければならない。
オリジナルゲーム映画なら構わないが、
ドラゴンクエストは原作付きだ。
最低限の礼儀を○○は割っている。


じゃあ「スパイダーマン/ファーフロムホーム」
はどうだろう。
「自分の自信のなさゆえ、○○に騙される」が、
最高におもしろいアイデアで、
そこが結局このストーリーを決定付けている。
この時点で、
「世界を騙す奴は演技が上手い。
一番の弱点を狙ってくるから、
騙されないようにしなければならない」
という現代的なテーマが浮かび上がってくる。

あるいは○○をヴィランにしたことで、
「結局この話は映像チートを打ち破る話だ」
ということが芯にあるわけだ。

ということで、結局はこのストーリーは、
「詐欺に引っかかってはいけない」
という話になるな、
と書く前から判断できるし、
その通りに書かれていた。

「ビジュアルなんて関係ない、それが機能しているかどうかだ」
ということを描くチャンスが、
壊れたブラックダリアで象徴出来たのに、
そこを逃しているのが大変惜しい。
ここでテーマをもっと深いところまで描けたのに。
(たとえば。
ピーターブラックダリアを出す、壊れているのに気づく。
「なんてこった。ここで最高に決めたかったのに」と言うのに対して、
MJが壊れたネックレスを黙ってつけて、
「ビジュアルで騙されて好きになったわけじゃない」
といえば良かったわけだ)



このように、
「じゃあ結局この話は、
一体全体で何を書こうとしてるのか」を、
常に抽象レベルで考えておかなければならない。

それが明確にあればあるほど、
全体のバランスを整えることが可能になる。

つまり、テーマとは全体を整える係である。

これを描くためにはこれが必要だろう、
これを描くためにはこれは不要である、
という一段上の判断を、テーマが教えてくれる。


自分は一体何を書こうとして、
これを書いているのか。

常に見失いがちだが、
それを時折書き出して見れば、
自分のやるべきこと/やるべきでないことが、
見つかるだろう。

テーマはつまり、自分のやろうとしていることを映し出す、
鏡の役割をしてくれる。
それを見ながら方向性を常に見定めれば良い。

そして、当初描こうとしていた本質の、
さらに深い部分に執筆でたどり着ければ、
最高なのだ。


(書き終えた後のリライトでも、
常に同じことが言える。
「この話は結局○○○なのだから」がぶれると、
リライトの方向性はぶれまくる。
これが最初から最後まで変わらない、一貫したものであるべきだ。
だから最初のプロットの芯を思いついた段階で、
「これは受肉させるべきかどうか」はわかるはずだ)

寄り道しているかどうかは、テーマが教えてくれる。
辛いかもしれないがやるべきことは、テーマが教えてくれる。

結局何を書こうとしているのか。

分からなくなったら紙に書いてみよう。
同じことを何度も別の言葉で書いたっていいのだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:05| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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