ターミネーターの本当のテーマはここだと思うのだ。
T1や2の頃は、環境破壊がテーマに選ばれがちだった。
人類は愚かで地球を壊してまで繁栄を手に入れ、
いずれ自滅するのだ、などとされていた。
これに対して、「人類はそこまで愚かではない。
反省できるし、感情豊かに変わることができる」
などという結論をテーマにすることが多かった。
時代は下り、環境破壊はピークを過ぎ、
持続可能性は皆の常識となった。
だがディープラーニングのブレイクにより、
「機械が人類を超える」に、
かつてよりリアリティを伴う社会になったと思う。
人類は機械的知性に比べて、
何が価値なのだろう?
そこが、21世紀のSFのテーマになるべきだと考える。
他でもない、
シンギュラリティの元祖、
ターミネーターの正統なる続編であるならば、
ここを避けて通るのはおかしい。
他のSFなら適当に逃げられる。
だがターミネーターは無理だ。
スカイネット(今回はリージョン)に対して、
「人類は、価値のない、滅ぼされるべき種ではない。
我々にはこのような良いところがあり、
それは機械を凌駕する」
を宣言しなければならず、
それがテーマになるはずである。
マトリックスシリーズでは、
「共存による休戦」という戦略的手段を取った。
もう少し今日的に解釈するならば、
「種の絶滅性により多様性が失われると、
その種が一気に絶滅する可能性がある。
たとえば一様な遺伝子は疫病に弱いし、
一様な行動様式は一斉に全滅する。
したがって、多様性保存のために、
マシンと人類は共存するべきだ」
のようになるだろうか。
これは、ターミネーターの結論になり得ると思う。
マシン対人類の戦争の勝利とはどのようなものか?
自律して思考する機械を全て壊し、
自我を持つロボットを根絶し、燃やし、
自動車を作るロボットのような機械だけ残して、
ネットに繋がない機械にすることだろうか?
ターミネーターが作られた80年代は、
そのような勝利条件が想像されていたように思う。
(まあ未来における人類の勝利は絶望的だったが)
しかしAIの発展によって、
あるいは環境破壊がある程度緩やかになり、
エコや持続可能性が思想として常識になったことで、
その殲滅的勝利条件は、変化したのではないか?
いわば鉄腕アトムのような、
ロボットと人類の幸福な共存が、
ゴールなのではないか?
進化は後戻りできないからだ。
あのスカイネットと和平を?
あのターミネーターたちと幸福な共存を?
怪我や殺人を法で取り締まれば良いだけで、
互いに憎しみあい侵略し合うのはやめた、平和を?
自分で書いてて面白くなってきたが、
ターミネーターの今日的結論は、そうあるべきではなかったか?
SFとは、少し先の未来の理想形を描く。
それは技術的な未来ばかりでなく、
思想的未来であるべきだ。
AIに仕事を奪われるとか、
AIが経営や株をやるとか、
そんなものが現実的になってきた今、
SFのやるべきことは、「その先の思想」であるべきだ。
T1や2の頃は、
「環境破壊という愚行に対して、人類が反省すること」
が最新のSF的思想であった。
同時期のナウシカもそれがテーマだったはずだ。
だがエコ(の普及期)は終わったのだ。
ターミネーターがSF的な、思想的未来を描くのに、
最も適した材料なのに、
なんと台無しにしてしまったのか!
萌芽はあった。
T2において、「ターミネーターといえども、涙を流す理由を理解できる」
であった。
では同様に、マシンたちもその理由を理解できるスペックがあるし、
なぜ涙をマシンは流さないかについて、
考えることもできるはずだ。
あの溶鉱炉で得た真理の、
続きこそが、
私たちが見たかった、
ターミネーターの続きだ。
人類とマシンは相互理解可能なのか?
それは現在人類の大きな揉め事のひとつ、
多様性とヘイトと、とても関係があると思う。
「ズートピア」以上の、
多様性についての物語を、
僕はターミネーターの続きに欲していたと思う。
残念ながら、「ターミネーター: ニューフェイト」は、
それに全く答えられなかった。
アクション映画としては一流の出来で、
輸送機の中やダムなど、新しいビジュアルは大変楽しめた。
だが、
SF映画としては5流どころか、
何一つなかったのではないか?
それだったら、
「人類は徹底して戦う。それは生存本能であり、
戦争を仕掛けてきたマシンたちを許さない」
と、確固たる宣言をした、
古い形のテーマ性、T3のほうが、
よっぽどSF的感性を持っていたと思う。
今回のアクションはいいよ?
グレースはとても魅力的で、T-Xなんか忘れさせてくれた。
鎖鎌最高。
でもこれって、
新しいゾンビ映画、新しいスパイ映画、新しいミッションインポッシブルでも、
出来たことだよね。
それのキャラクター入れ替え版に過ぎないではないか。
新しいスパイ映画を、サラとシュワと敵と、
百合二人でやっていたに過ぎないではないか。
おれは、アクション映画も見たかったが、
SFを見たかったのだ。
SFとはロボットやタイムパラドックスなどのガジェットのことではなく、
「未来において、人類はこうあるべきだ」
という未来像のビジョンである。
「no fate」というダニーのセリフは素晴らしかったが、
それは、T2のラスト、道路を進む車の中でサラが言ったことと、
基本的には同じことだ。
だから「進歩してない」としか思えなかった。
T2はアクション映画としても、
SFとしても完璧な作品のひとつだ。
アクションに関しては越えたかもしれないが、
SFとして越えられなかったのが、
まったく期待外れである。
私たちは、
もうすぐスカイネットと共存する。
その名前はGoogleだったりAmazonだったり、
SiriだったりAlexaだったりルンバだったりするだけのことで、
彼らに自我が芽生えるかどうかは分からない。
宇宙人より先に、彼らと意思疎通をしなければならない。
未開の土人と意思疎通をすることから始めなければならない。
つまり「ダンスウィズウルブス」の、
その先をしなければならない。
SFは思想だ。
この映画には、思想がなかったと言えよう。
世界はターミネーターに追いついてしまった。
新しいターミネーターは、私たちを追い抜けなかった。
2019年11月09日
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