順目に考えれば、自業自得といえようか。
「とっさに判断した馬鹿なことを、一生背負うことになる」
ともいえようか。
しかしパルムドールの文脈だともう少し変わってくる。
たとえば、
「人は善意で動くし悪意でも動く、
どうしようもない生き物である」とか、
「金持ちからは多少絞ってもいい」とか、
「金は心のシワを伸ばすので、
金持ちはいい人だが、
貧乏人は心が貧しい」とか、
「騙されるほうが悪い」とか、
「子供は馬鹿だ」とかか。
これらは、すべて、
「クレーム対策によって、
PLなどの配慮によって、
コンプライアンス的なものを遵守することによって、
映画内で表現される、
『綺麗な世界』と、
真逆のもの」
という文脈を持っている。
あの世界ではゲイは馬鹿にされ殺されるだろう。
あの世界では法律違反ばかりだろう。
あの世界では子供は純真ではないだろう。
あの世界では雇用は均等ではなく、
ハラスメントなにそれの世界だろう。
つまり、
「綺麗な世界」には失われたもので、
現実の世界にはあるものが、
あそこに濃密にあふれている。
「綺麗な世界」をつくることが文明だろうか。
真実を描くことが文明だろうか。
パルムドールは、アメリカや、
世間の常識へのカウンターカルチャーの役割がある。
「世界はCMのような綺麗な世界ではない」
というのが、
毎度毎度のパルムドールのテーマのような気がする。
世界は泥まみれで、
その中で一瞬咲いた花が、
映画であると考えるのかもしれない。
世界は理解できて、
世界は整理されていて、
個人個人が尊重されていて、
ひどいことは悪役の中にだけしかなくて、
世界はうまくいく、
そしてそれらは全てコンプライアンスの範囲内でございます、
という近年の支配的なものへの、
カウンターだという文脈がある。
どっちが正しいとかはない。
その拮抗こそが人類だ。
この作品がパルムドールを獲ったのはおそらくそういう理由で、
「うまくまとまっていた」こととの両方の理由だと、
考えられる。
テーマの価値は、
相対的に決まる。
いまは、悪い意味で平和な世界だと、
この作品とカンヌは語っていると僕は読み取る。
2020年01月13日
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