2020年01月13日

テーマについて考えよう(「パラサイト半地下の家族」評3)

順目に考えれば、自業自得といえようか。
「とっさに判断した馬鹿なことを、一生背負うことになる」
ともいえようか。

しかしパルムドールの文脈だともう少し変わってくる。


たとえば、
「人は善意で動くし悪意でも動く、
どうしようもない生き物である」とか、
「金持ちからは多少絞ってもいい」とか、
「金は心のシワを伸ばすので、
金持ちはいい人だが、
貧乏人は心が貧しい」とか、
「騙されるほうが悪い」とか、
「子供は馬鹿だ」とかか。

これらは、すべて、
「クレーム対策によって、
PLなどの配慮によって、
コンプライアンス的なものを遵守することによって、
映画内で表現される、
『綺麗な世界』と、
真逆のもの」
という文脈を持っている。

あの世界ではゲイは馬鹿にされ殺されるだろう。
あの世界では法律違反ばかりだろう。
あの世界では子供は純真ではないだろう。
あの世界では雇用は均等ではなく、
ハラスメントなにそれの世界だろう。

つまり、
「綺麗な世界」には失われたもので、
現実の世界にはあるものが、
あそこに濃密にあふれている。

「綺麗な世界」をつくることが文明だろうか。
真実を描くことが文明だろうか。

パルムドールは、アメリカや、
世間の常識へのカウンターカルチャーの役割がある。


「世界はCMのような綺麗な世界ではない」
というのが、
毎度毎度のパルムドールのテーマのような気がする。

世界は泥まみれで、
その中で一瞬咲いた花が、
映画であると考えるのかもしれない。

世界は理解できて、
世界は整理されていて、
個人個人が尊重されていて、
ひどいことは悪役の中にだけしかなくて、
世界はうまくいく、
そしてそれらは全てコンプライアンスの範囲内でございます、
という近年の支配的なものへの、
カウンターだという文脈がある。


どっちが正しいとかはない。
その拮抗こそが人類だ。
この作品がパルムドールを獲ったのはおそらくそういう理由で、
「うまくまとまっていた」こととの両方の理由だと、
考えられる。


テーマの価値は、
相対的に決まる。

いまは、悪い意味で平和な世界だと、
この作品とカンヌは語っていると僕は読み取る。
posted by おおおかとしひこ at 14:36| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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