関西人はこの点において有利だろうね。
なぜなら、「普段から落ちをつけないと、話をする資格がない」からだ。
話の落ちは、何も笑いであるとは限らない。
ぼくは、「新しい発見」であるべきだと考えている。
感心、新情報、新しい考え方、
そんなこと考えたこともなかったこと。
大阪の落ちはそこに笑いが必要だという文法だけど、
笑いは大阪以外では是非ものではない。
そもそも新しい発見に至らない落ちは、
落ちではないと思う。
確認や、報告、通達のレベルに過ぎない。
話をするに値しないとすら思う。
だいぶ昔に見た、
忘れられない「すべらない話」がある。
ほっしゃんだったかな、宮川だったかな。
こんなのだ。(一言一句はぼくの記憶による再現)
ウチで最近九官鳥飼うことにしたんですよ、
おかんが飼いたいいうて。
で、おかんに懐いてたかなと思ってたら、
風呂上りのおかんを見て、
ギャーギャー騒ぐんですわ。親の仇みたいに。
なんやろー懐いてたのにーなんて言うて、
「おかん化粧落としたら別人やから敵と思たんと違う?」
とか突っ込んでたんですわ。
で、ある日田んぼを歩いてて、
最近のカラス避けって、CD紐に繋いだりするんやなあ、
なんてことに気づいたんですよ。
そこで、うわ!って思い出して。
おかん、めっちゃ乳輪デカいんすわ。
落ちの条件は、なるべく短く切れよくいくことだ。
大阪の場合は爆笑が最上の落ちだが、
必ずしも笑いになる必要はない。
むしろ重要なのは、「それ?」という新しい発見だ。
「鳥は目玉状のものを怖がるが、
おかんのめっちゃ大きい乳輪も、目だと思って怖がる」
という「新しい発見」こそが、
この話の落ちである。
「目みたいなんや」と、松本が笑っていたのを思い出す。
デカい乳輪は目みたいで怖いよね。
さて、この話は実話ではない。
演者が練りまくった創作である。
つまり、私たちが書くストーリーと、同じ作り方をしている。
落ちの発見、「乳輪めっちゃでかいと鳥が怖がる」
を爆笑につなげるために、
どういう前振りや展開があると面白いのか、
という場面場面を練りまくった秀作である。
おかんの風呂上りが、冒頭の伏線になっている。
そして謎解き構造になっている。
九官鳥が騒いだ理由を、田んぼのCDが解くわけだ。
謎解き構造はストーリーの魅力的な形式のひとつで、
「なぜだろう」と一回思ったら抜け切れない吸引力がある。
上手なのは「おかん化粧濃いから」のくだりで、
クスリと笑いを取って、
一旦九官鳥の話を終わらせた振りをしている部分だ。
このことによって、「九官鳥が騒ぐ」が伏線であることを一旦忘れる。
直後に場面転換が来ることで、
田んぼに頭の中の風景は上書きされるため、
一旦記憶に格納されてしまう。
だから、落ちが来た時に、「ああ、あのときの!」
と、伏線が解消する仕組みになっている。
この、マジックのような視線誘導は巧みだ。
「なんで九官鳥が騒いだんやろう」と思いながら外に出ると、
田んぼにCDがあって、
と、焦点を続けたら面白くない。
一回違うところに焦点を誘導して、
前の焦点を忘れさせるところに妙味がある。
大阪人は、
「話をしてくれ」と言われたら、
このクラスを目指す。
もちろん毎回うまくいくとは限らない。
しかし毎日毎日、「どうやったら面白い落ちになるか」
を条件反射的に考えることで、
あるいは周りにオモロイ奴がいて真似することで、
ストーリーの組み立てを自然に学べる余地がある。
大阪ローカル番組では毎日お笑いやってるし。
この毎日の鍛錬が、「落ちのあるべき形」を鍛えるのだ。
注目すべきは、「おもんないやつの話はいらん」となって、
ストーリーテラーでないものは淘汰されることである。
残ったオモロイやつだけが、話をする資格がある。
ぼくが東京にきたとき、あるいは関西人が東京にきたとき、
思うことはひとつ「落ちは?」だ。
なにも爆笑で終われと強制しているわけではない。
「その話はなんのためにしたのか」が不明確なので、
それはストーリーの形として不十分である、
と文句を言っているのである。
逆に、大阪以外のストーリーテラーは、
落ちをつけ慣れていない。
ぼくが短編をたくさん書け、としつこく言う理由は、
毎日違う落ちのパターンをつくりなさい、
と言うことに他ならない。
だって大阪人は毎日違う落ちをつけて笑いをとってるんだぜ。
それに勝てよな。
もちろん、笑いの方向に持っていく必要はない。
落ちとはもっと広い概念だ。
しかし、その話をする意味があり、
冒頭からきちんと仕掛けがなければ、
そしてそこに発見がなければ、
それは落ちでもなんでもない。
笑い以外の何かは、あなたの作家性ですらある。
だが大阪人のデイリー爆笑落ちに負けるならば、
それは大したことのない作家性だ。
2020年07月06日
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