脚本がどこへ行くかわからなくなったら、
主人公やその他の誰かを歩かせるといいぞ。
映画脚本とは、
すべてがアクションで記述される。
それは殴るとか爆発するだけでなく、
動くすべてを含む。
座る、寝る、話すもアクションだ。
カメラで撮れるものは、すべてアクションである。
その中でも基本は何かを考えると、
僕は「歩く」ではないかと思う。
「言う」もなくもないが、動きがなくなってしまうので、
僕は歩くほうがいいと思う。
なぜかというと、
歩くからには、「目的地」があるからだ。
街で歩いている人、全員に目的地がある。
そう考えたことがないのなら、
芝居のことを何もわかっていない。
渋谷のスクランブル交差点、
秋葉原の歩行者天国、
あるいは祭りの人々。
この、全員は歩いていて、
目的地がある。
「何か面白いことがないか、ぶらぶらと歩く」
も含めてだけど、
全員、「〇〇へ向かう」途中であるわけだ。
助監督がエキストラの芝居をつけるとき、
「〇〇から〇〇まで歩いてください」なんて指示をすることがある。
まあどうでもいいときはそれでもいいのだが、
本当は「〇〇へ〇〇しに行く」という目的を与えれば、
勝手に歩く芝居をするものなのだ。
渋谷のスクランブル交差点の写真でも入手しよう。
100人くらい写ってるかな。300くらいかな。
彼ら全員の目的地を想像してみることは、
芝居やストーリーを考える訓練のひとつである。
こうしたことに慣れているならば、
執筆で行き詰ったときに、
主人公を歩かせる、
ということが何を意味しているか分かるだろう。
つまりは、
歩かせたら、目的地を設定しないといけない、
ということに気づくことができるというわけだ。
「そうか、今目的地がないから面白くなくて、
行き詰っているのだ」
と気づければ、
色んな直しができるに違いない。
登場人物が歩みを止めるのは、
すべてが解決したラストシーンだけだぞ。
それまでは、全員が少しずつ歩いている。
それがストーリーだ。
2020年12月09日
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