作者と主人公を同一視せず、切り離すべきだ。
しかしつい「自分の人生の生き方」と、
混同させてしまう。
人との距離の取り方。
人に頼むとき。
親との付き合い方。
恋人の作り方。
仕事の仕方。
生活リズム。
習慣。
過去から来る判断。
色んなものが違う。
自分とひとつも同じにしないことだ。
「こういうことなのだから、こうする」がまったく違うようにしよう。
自分と違う生き物であるにも関わらず、
「人生の切り開き方」が自分と同じになってはいけない。
面接の受け方とかも違う。
志望動機も違う。
面接を受けないというやり方もある。
協力してくれる人の探し方も違う。
とりあえずやってみるやり方もあるし、
慎重に検討するやり方もある。
誰かに相談するやり方もあれば、
一人で研究するやり方もある。
作者自身の人生を切り開く方法とは、
違うやり方でやってみると、
行動力に違いが出るだろう。
目的や動機が同じでも、
人によって行動の種類が違う。
それを研究するとよい。
「あなたはこういう状況です、
こういうことをしたいです。どうしますか?」
という問いだ。
答えは人によって違う。
あなたがやるようなやり方で、
その主人公(や登場人物)がやるとは限らないし、
違う方法でやることを描くべきだ。
それが疑似体験の面白さというものだろう。
「自分にできない、〇〇をやるとしたら?」を想像し、
その顛末を描くのだ。
「自分ならつい〇〇を選択して、そんなに成功できないだろうが、
△△を選択して成功するような人を描きたい」
という欲望を持とう。
そうすれば、
△△を選択した場合について、
調べたり、シミュレーションしたり、
△△を選択しそうな友達や知り合いに尋ねることが出来るからだ。
「自分にはできないことを、代わりに叶えてくれる主人公」は、
あなたにとっても魅力的だし、
他人にとっても魅力的だということさ。
あなたがよくやるやり方をもって、
「どうだ俺のやり方がほんとうは正しいのだ、
すごいだろう、正しいと驚け、尊敬しろ」
というのはそんなによくない。
説得力がないからだ。
第一それであなたは成功していないのだろう?
頭の中でシミュレーションするという点では、
客観性がない分机上の空論になりがちだ。
(だからありもしないラッキーで勝利する、
御都合主義しか書けないのである)
「熊の倒し方」のイラストで、
「まずダッキングして熊のフックを躱して、
背後に回りバックチョーク」なんてものを見るが、
実際の熊の一撃を躱すことはそうとう難しいことを知ることだ。
犬の突撃すら躱すことは難しいことは、
犬を飼ったことのある人なら知ってることだろう。
自分の妄想なら客観性がないが、
自分と違う他人なら、客観性ができる。
「それは無理だ」と思えるし、
「いや、躱すとしたらどれくらいのスピードとタイミングが必要か?」を、
調べ始めることすら可能だ。
たとえば亀田がやっていた、
突き出す竹刀をローリングで躱すような動きだったらできるとか、
実際の踏み込み距離はボクシングより長いから、
熊の腕のリーチを調べて、
亀田より〇倍速ければできるとか、
実際に計算してみればいいことだ。
それほど客観性があれば、
「この時ならできる」と条件を絞ることが出来るだろう。
その条件をご都合ではなく整えてやれば、
物語の中では実現可能なわけである。
まあこれは極端な例だけど。
「自分にはできないが、
この人にはできるやり方がある」
ということにしていくと、
どんどん自分とは違うやり方で、
人生を切り開いていくだろう。
それには、色んな人の性格を知るとよい。
一人でやっていくタイプもあれば、
他人に頼るタイプの人もいる。
まず行動してみるタイプもあれば、
慎重なタイプの人もいる。
他人に感謝するタイプもいれば、
他人をつぶすタイプの人もいる。
「もし自分だったらこうする」をやめて、
「このキャラだったらこうする」を、
創作していこう。
そうすると、作者と主人公は分離していく。
あなたを主人公に投影してはいけない。
主人公は他人であり、
あなたと違う性格で行動力だ。
あなたが出演したいなら、
あなたはキャストになりなさい。
こんなものを読んでないで、
発声練習したり、台本を読んだり、
オーディションを受けたり、事務所にはいりなさい。
あなたはキャストたちを動かす指揮者である。
指揮者と同じ人格は登場人物にいない。
あなたは全部他人のオーケストラを、
楽団としてまとめあげる人格である。
2021年08月14日
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