問題を感じたとき、
人は問題を感じた箇所を指摘する。
しかしそこを修正すれば正解というわけではない。
色んな人に見せて、感想を聞くのは大変参考になるものだ。
しかし、その「聞き方」をマスターしておかないと、
暗礁に乗り上げることがよくある。
そのひとつに、問題の指摘がある。
こちらが思っていなかったことに気付かされたり、
反論したいことは山ほどあるとしても、
問題の指摘は大変ありがたいことだ。
だがその問題は、
「表面的かどうか」を判断しないことには、
問題かどうか判断できないことに注意せよ。
ある場面Pに、問題があるとする。
だからPを直しました、
で済むかというと、そうではないことのほうが多い、
という話をしたい。
たいていの人は、
「Pに違和感がある」という、
言語化されていない指摘をする。
何がどうあかんねん、といつも心の中で思うのだが、
その人の生理的な何か、
感情的な何か、
個人的な何かに引っかかっていることの表現として使われうる。
その人の個人的な違和感や生理ならばほうっておけばいいのだが、
それが集団的な何かに共通のことかもしれないと疑うことは、
やるべきことだ。
で、違和感がある部分を取り除けばハッピーになるのか、
というとそうではない。
それは対症療法にすぎず、
根治になっていないことが9割くらいある。
問題は放置され、リライトは道に迷う。
なぜかというと、本質的な問題はまだ解消されていないから、
Pを直してもまだ違和感があり、
次はQ、次はA、次はN……と、
無限に違和感を取り除かないといけなくなるからだ。
違和感だけをもとに修正していくと、
そのような、
「ガンを切除した結果、内臓がほとんどなくなる」
という状態になることがある。
そして死ぬわけだ。
「あんまり面白くないね」と、
違和感を感じた素人はいう。
いや、お前の言う通りに直したやんけ、
と医者である我々は、
切除された内臓の前で、死した作品の前で、
血まみれで叫ぶのである。
何が間違っていたかというと、
診断である。
たとえば、腰痛は内臓疾患の前駆症状であることがある。
ただ腰が痛いからといって、
腰痛クリニックに通ったり、
筋肉を鍛えたりすることは間違いの処方だ。
内臓の検査をしなければならなかったのだ。
腰に違和感があるとしても、
原因は内臓のことがある、
すなわち、違和感の箇所を直すだけでは、
根本的に直したことにはならないのだ。
むしろ、内臓を修正すれば、
腰がそのままでも、違和感は消えることがある。
Pの場面に違和感があったとき、
Pを修正することなく、
まったく別のAという場面を修正するだけで、
Pは見違えるように良くなることが、
とても良くあるのがストーリーという有機体である。
だから、
「Pに違和感がある」は、
注意して聞かなければならない。
その違和感がどこから発生しているか、
そもそもなぜ違和感があるのか、
私はこのように表現したのだが、
そこの何が問題なのか、
そこを議論してあきらかにするべきだ。
「言い方に違和感がある」とかのあいまいなレベルでしか素人ほど表現できず、
「ここでこういう言い方さえしなければいい」
と、誤診しがちである。
そうではなく、
その違和感はどこから生じていて、
なぜそう思うのか探り、
それはどこから始まったプロットから来ているのか明らかにするとよい。
どのプロットラインのことでそれが生じているか、
まずは構造的に明らかにするとよい。
そうすると、
ただ伏線が足りていなかっただけとか、
ただ10個前のシーンのセリフを削除したり、
セリフを足すだけでよかっただけとか、
そういうことになることが、
まれに良くあるのだ。
あることを理解していなかったから、
その結合点であるところのPが違和感があったり、
あることが余計な情報になっていて、
Pの役割が理解できなかった時は、
Pを修正しても意味がない。
違和感だけは消えるが、
根本的な問題は解消していないからだ。
腰痛は一時的に消えるが、
内臓は治療されていないのだ。
いずれどこかにまた痛みが出てくるだろう。
その痛みを修正しているうちに、
患者は手遅れになる。
優秀な治療は、
原因の探索がすぐれていなければならない。
Pに症状を見たとき、
それがどのようなプロットラインの結実であるか、
あるいはそこからあとにどのように影響があるかの、
流れをまず把握しなければならない。
できれば違和感を訴えた人に対して、
これはこのように流れがあり、
このようにここでこうなり、
そのあとそれを使ってこのようになる、
という、Pを含む流れをすべて見せたうえで、
何が違和感の正体なのかを、
明らかにする必要がある。
そもそもそのようなことが実行されていることを、
患者は理解していないことがとても多い。
我々が内蔵や神経の流れを理解していないことと、
似ていると思う。
Pから直すな。
Pを直し、Aを直し、Nを直す羽目になる。
そして全体がよくなくなったことに、
患者は責任を負わない。
「違和感を覚えなくなった」ことは確かだが、
「より面白くなった」にはならない。
だから、負け戦になる。
そうでなく、
Pの原因Aを突き止めて、
Aだけを直すのだ。
そうするとPを直す必要はなくなり、
そもそもやろうとしていたことは急に機能する。
どう直すかは一般法則がないが、
ある場面を切ったり、新しく作ったり、
設定を足したり、引いたりすることで、
Aは変わり、結果その影響はPへとつながるだろう。
そうすると、PとAとNとを大工事して、
結果ダメだった、患者は死んだ、
という手術に対して、
AをいじっただけなのにPが良くなるどころか、
全体によくなった気がする、
という手術になるはずだ。
ついでに、Aの影響をよりよくするために、
Pをさらによく直すことは可能だろう。
そうすると、
「何がよくなったかはわからないが、
全体によくなった気がする」という評価になるはずだ。
違和感がないから良くなった、
ということはない。
快感が持続することしか、
人は求めていない。
よくないところを直したからといって、
作品はよくならない。
仮に「人殺しは正しい」というテーマの作品があり、
主人公が殺戮する場面で、
血の飛び散り方が過激だと文句がついたとしよう。
だけど問題は血の飛び散り方を規制することではなく、
「人殺しが正しいというテーマ自体が受け付けていない」
ということだってあり得るわけだ。
じゃあ、これを受け付けさせるためには、
「人殺しは間違っている」という、
「常識的な、普通の人」を出して、
議論しながらその人が疑いを深めていく、
のような構成に、根本的に修正する、
などをする必要があるかもしれない。
だとしたら、それは土台からやり直すことになるわけだ。
多くの人はそんな大手術になりますよ、
というとビビって、
「ちょっと血の量を減らすだけでいいですから」
という。
それは、違和感が今消えさえすればいいだけ、
という場当たりの主張で、
意味がないと僕は思う。
だから、
違和感を訴えた人は、
こちらが気づいていない、別の問題点を指摘している、
と考えたほうがいいかもしれない。
ただその場面Pの字面のことを言っているのか、
それともまったく違う問題点を指摘しているのかは、
注意深く考察することだ。
そのPがどう直ればいいのか、
その具体を検討したうえで、
「それってそもそもPの問題じゃなくない?」に、
気付けるか、
ということが肝要だ。
Pの問題は、何の症状なのか?
ただ誤字脱字レベルの話なのか?
Pを直したら、AもNもQも直さないといけなくなるのか?
そして患者は死ぬのか?
それは修正する人の労力だけを使いつくして、
なお不幸だ。
あるいは、問題がAにあることさえ突き止めれば、
Pを修正することなく、
労力は最小で、
患者は回復するのか?
そういう風に、「診断」できるかが、
命運を分けると思う。
僕はそうした診断法、治療法を知らなかった。
教えてくれる人もいなかった。
実地のケースで学ぶことはなかなか難しいが、
自分の作品で体験することは可能だ。
だからこそ、
たくさんたくさん書く経験が必要なのだ。
修正することを怖がらない程度に、
「いくらでも書けるよ」という風になっていなければならない。
書くのが怖い人ほど、修正を嫌がり、
もうこれしかない、と思い込んでいるからね。
あなた自身が疑ってもよい。
「ここに違和感がないか?」と。
その嗅覚は大事で、
名作を見て養う感覚でもある。
「いや、そうは思わなかった」と答える人もいる。
「そうか、気のせいか」かもしれないし、
「実はガンの前駆症状を見逃していた」かもしれない。
真実は分らない。
それらの偶然の積み重ねで、
作品という生命は生きている。
どういう宇宙でいたいのか。
それがどのように受け入れられたいのか。
そのふたつを俯瞰すれば、
その作品という生命が生きているさまを、
想像できるかもしれない。
それに対して、違和感Pと原因Aの突き止めを、
したほうがよい。
リライトは俯瞰である。
俯瞰というのは作品だけの範囲だけではなく、
世間に受け入れられ、他の名作と比べられる、
という俯瞰だ。
Pだけを見ていては、見つからない視野なのだ。
2021年10月04日
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