2022年02月01日

論理とは、順序のことである

物語は、左脳的な論理と、右脳的なビジュアルをもって、
感情を引き起こす人生のシミュレーションである、
と定義してみようか。

その根幹の一つ、論理とはなんぞや。

論理とは順序のことである、
と考えると分かりやすくなるのではないか。


写真になく、物語にあるのは時間軸だ。
設定になく、物語にあるのは時間軸だ。
キャラになく、物語にあるのは時間軸だ。
これは2Dマリオが3Dマリオになったようなもので、
「もうひとつの次元を獲得した」ようなものである。

物語は、写真よりも音楽に近い。
音楽にはビジュアルはないが、
時間軸を持つからである。

写真ドラマはないが、ラジオドラマが可能なのがその証拠だ。
(絵によるドラマ=漫画はあるけど)


物語は、写真よりも論文に近い。
序論、本論、結論という構成の時間軸を持つからだ。

そして時間軸とは、
順番のことである。

何があり、そして次に何があり、
そして次に何があるか、という順序のことである。


「ストーリーを作る」ということは、
この順序を作ることに他ならない。

どんなシーンで何があり、
次のどんなシーンで何があり、
次のどんなシーンで何があり…

最後のどんなシーンで何があるかの、
順序を最終的に決めれば、
ストーリーができたことになる。

もちろん、
なんでもいいからそれを決めればストーリーになるわけではない。
「一ヶ月のベスト思い出を一年分12個ならべたもの」
は、あなたの素敵な思い出ではあるが、
ストーリーではない。

ストーリーの全ての出来事には、
因果関係がなくてはならない。

Aの次にBがあるとしたら、
AゆえにBが起こるか、
Bのために先にAをしておくか、
AとBは今一見関係ないが、
いずれ後の方で因果関係を持つかの、
順接、逆算、並行の、
三通りしかない。

(他にもあるかもだが、単純化した)


つまり、すべての出来事とは、
これらの因果関係でつながった、順序のことである。

この順序だてた因果関係が重要なので、
実際に起こった時間順序である必要はない。

すなわち、ストーリーの順序とは、
「いったいぜんたい何が起こっているのか、
観客が理解する順序」
のことなのだ。


もちろん、ストーリーは論文ではなく娯楽だから、
観客の裏をかいたり、
ミスリードしてどんでん返したりなどの、
観客との駆け引きを楽しむこともある。
(その基礎が劇的アイロニー=観客と登場人物の知っていることに、
差があることだ)

そしてそれをも含めた、
どのような因果関係で、
何が起こったかの順序こそが、
ストーリーの骨格である。


僕はこうした因果関係のことを論理とよび、
それらを無矛盾、ご都合主義やメアリースーに陥らないこと、
などをチェックポイントにするといいよ、
などと扱っている。

因果関係こそがストーリーの骨格だからだ。

だけど、因果関係には、
語るべき順番がある。
その順序を組んでいくことが、
ストーリーをうまく語ることではないか、
と思ったのだ。


つまり、
ストーリーをいじるには二通りある。

因果関係を変えることと、
順序を変えることである。



因果関係を変えることには、
設定やキャラや舞台設定を変えたり、
動機や目的、それをした/しなかった理由を変えるなど、
すべてのパーツを変える可能性が含まれる。
あることをわざと伏せる/オープンにする、
のことも変えても良い。

順序を変えることは、
それらの「提供の順番」を変えたり、
あるものを足したり、引いたりすることである。

そうして、
最終的に、
すべての情報提供順を決定することが、
ストーリーをつくることだ、
といえるのではないか。



数学は論理の基礎だけど、
論理ってなんやろな、と考えると、
かならず時間軸というか、順番がある。

論理はかならず頭から尻に向かって進むものであり、
逆から読むものではないし、
途中を飛ばしたり、勝手に挿入できるものではない。

つまり、
左脳的な論理や言語にあり、
右脳的なビジュアルイメージや感覚にないものは、
順序なのでは?
と思ったのだ。

左脳はつまり、時間というものを知覚して、
時間に関するものを扱える器官なのではないか、
とふと考えた。



かつて、脚本家や映画監督は、
大学出のインテリしか難しいと信じられた時代があった。

時間軸を扱える左脳は、受験勉強でずいぶん鍛えられるから、
ではないだろうか。
もちろん、教養の豊かさや、自分にある程度自信があること、
などのいい意味での坊ちゃん的な教養が必要とされたのもある。
必死に生きているだけでは、
作家としての一歩引いた目線が確保できないものね。



脱線した。

つまり、
ストーリーをつくるとは、
論理だてた順番をつくることだ。

あるものの次にあるものがきたとき、
それが順接(展開)なのか逆算(伏線の解消)なのか、
並行(のちに期待、あるいは謎めき)なのかを、
全部説明できて、
なおかつ最も無駄がない形に、
すっきりとさせることを意味するのだ。

これが出来る人は、
やはり限られた人だと思う。

話が上手い人というのは、
これが上手い人のことであり、
声がいいとかイケメンとか、
表情がいいとかは関係がないわけだ。


あなたはどんな順序で話すのか?
それがひとつの最適解になるまで、
全てを練っているか?

それを練るのがプロットだ。
それが練られていないストーリーは、
行き当たりばったりに必ずなる。
順序があやふやで、それがそれである確固たる理由がないわけだからね。

極論、よく練られたストーリーは、
目を瞑っても頭から尻まで、するすると出てこなければならないわけだ。


つまり面白いストーリーとは、
左脳的な面白さを含む。
それは、新しい数式の証明と同じ種類の興奮だと思われる。
順序の面白さである。
posted by おおおかとしひこ at 00:33| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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