だと僕は思う。
表現はシンプルであるべきだ。
その方が強い。
練り上げられた強い表現とは、
俳句のように切れ味が鋭く、
一つのことにズバリと行くものである。
ところが、
そのレベルに達していないと、
難しく言おうとしてしまう。
そもそも練り込んでないため、
言いたいことが整理されてなくて、
ごちゃごちゃになってることもあるだろう。
それらの要素を減らしたら、
そんなに面白くなく、
平凡で、
つまらないものになるのがバレてしまう。
だから、要素を増やして複雑にして、
「その複雑さこそがアイデンティティである」
などと思い込もうとする。
だから、
その表現も理解し難いほどに複雑で困難なものを作ってしまう。
これは、自意識の迷路だと思う。
自分は複雑で繊細なのだが、
それをうまく表現する手段がなく、
どう単純に示しても自分を表現できてないと思うため、
複雑に複雑にしてしまい、
誰も理解できないものになってしまう。
誰かに理解されたくて表現しようとしてるはずなのに、
誰も分からなくていいなどと思ってしまう。
単純すぎるのは自分ではない、
自分はもっと複雑で、
自分の次元を落としたそれは、
みっともなくちっぽけなもので、
それを自分とは認めたくない、
という心理だ。
だから、
複雑な迷路のような、誰も理解できない表現を好む。
これは文学である、芸術である、
とうそぶくものの、9割くらいはこれだ。
要素を分解して単純化したら、
大したことないやんけ、とバレてしまうのである。
だから複雑なことを言って煙に巻くのだ。
つまり、複雑な表現は、防護壁である。
表現とは、門を開くものだと思う。
あけすけにして、
この中のものをなるべくシンプルにしたので、
見てってください、
気に入ったら隅から隅までどうぞ、
どんな角度からでも最高なように、
きっちり作っときましたよ、
というものである。
それが出来ない人が、
覗き込まれて大したことないとバレるのを恐れて、
門を閉じる。
複雑な表現を隠れ蓑にして。
だけど僕は長年芸術的なものに触れてきたから、
それって作者の言い訳にすぎないことを、
よく知ってるのだ。
「おれはたいしたことないから、ごまかすぞ」であると。
道は二つある。
一つは、たいしたことになるまで、
自分と作品を練り上げていくことだ。
そしてそれはものすごく時間がかかる。
第二の方法は、
「大したことないが、ここまでは出来てて、
ここはいいでしょ」
という部分集合を切り取り、
目標値と、自分の扱える範囲にまで落として、
その中で練り上げたものをつくることである。
つまらないものですが、
とまずはへりくだり、
ただこの小さな宇宙は、なかなかじゃないですかね、
という提供の仕方をしてみるのだ。
そこまで客観的に見れていれば、
「己の全てをそこに叩き込む」とか、
「完璧な表現」なんてのは、
ただの厨二病だということがわかると思う。
表現というのは、
実は、「どこからどこまでの範囲の、何をいうか」
を決めることが一番難しいのだ。
これは、俳句を考えればわかりやすい。
どの宇宙を切り取るかを決めなければ、
俳句は難しくわかりにくいものになってしまう。
もしそれが小さなことしか言わないことになる、
と恐れたら、間違った道へ行ってしまう。
複雑なもので門を閉じる道へだ。
そうではなくて、
「今はここが精一杯面白がらせられる範囲です」
に範囲を小さくして、
「次回はもうちょっと大きな規模でやりたいですが」
くらいまで縮めて、
そこで采配を振るうことをやるべきだと思う。
逆に、
「ここまでの範囲のことなら、
ゲラゲラ笑わせて、
ボロボロ涙を流させて、
人生ってええなあ、と思えることが、
自分ならできるもの」
は、
どれくらいなのか、
を知らなければならない。
これはつまり、
「今までやった範囲のことまでしか出来ない」
ということでもある。
次やるべきはもっと大きな範囲に挑戦するべきだが、
それはやったことがないからどうなるか分からない。
だから、
表現とは常に冒険なのだ。
あなたがシンプルに人を楽しませられるのはなに?
何回も習作を書き、
その範囲を徐々に広げていくといいぞ。
書ける範囲のことを完結させたら、
次はもう少し大きな範囲のことを書く。
そうやって雪だるま式に経験値を増やしていこう。
完成回数が少ない人ほど、
一気にデカイことをやろうとして挫折するか、
複雑な殻をかぶって門を閉ざしたまま自分は大きいとうそぶくか、
どっちか止まりだろう。
そしてそういう人は二作目すら書かず、
何も成したことがない人になる。
2022年04月22日
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