もともとメアリースーとは、
二次創作の用語で、
ある世界に一人だけオリジナルキャラを放り込み、
それが作者の投影キャラで、
最強ないしモテモテになる現象をいう。
昔からもののけはナウシカの同工異曲にすぎないと思っていたのだが、
アシタカの存在だけが異なると感じていた。
ペジテのアスベルとは違うだろうと。
ナウシカの分霊とも考えられるけど、
ナウシカ世界に現れたメアリースーだと考えれば、
ほぼ辻褄があう。
エボシはクシャナ殿下、
ジゴ坊はクロトワ、
サンはナウシカ、
ダイダラボッチは王蟲ないし巨神兵、
と、
かなりの対応がある。
タタラ場はラピュタの炭鉱と考えれば、
ナウシカとラピュタの分霊を、
日本を舞台に生まれ変わらせたものが、
もののけに僕には見えている。
ていうかそこに何の新味もなく、
ラストは大海蕭だし、
その者青き衣をまといて、がない分、
カタルシスに欠ける物語だと、
ずっと感じている。
解説を見ると、
農民と侍という従来時代劇に出てくる人々ではない、
被差別民たちも含めて物語をつくろうとした気配があり、
それ自体は興味深い試みではあるものの、
成功しているとはいえない。
単に人々が蠢いているだけで、
あとは人間の物語だろ、
となるのだが、
その人間の物語があまりおもしろくない。
ナウシカよりつまらない和もの、
というのが僕のもののけ評だ。
で、アシタカだ。
このキャラクターが実は一番よくわからない。
あんなに冒頭呪いの場面を描いておいて、
これが解消しなくておしまいなんだよね。
これの解消が人に戻ることであり、
サンたちと共に生きること、
ともなっていない。
村に残した許嫁も再登場しないし、
ふつうあれだけ村のことを描けば、
その村に戻った時に、
全く違う感覚を覚えるとか、
その村に侵攻するとか、
もう一度村を使うはずだ。
でも使ってない。
じゃあ何のために出てきたの?
と思うわけだ。
で、
ああ、メアリースーだと思えば説明はつく。
アシタカとは、
ナウシカを和物ファンタジーに生まれ変わらせた世界に放り込んだ、
宮崎の投影キャラであると。
だから最強キャラで、
しかしそれだと恥ずかしいから、
その設定に時間をかけているんだなと。
すなわち、アシタカの呪いとは、
宮崎の自分語りなのだ。
僕は、
もののけ冒頭はナウシカ世界にないオリジナリティだと思い、
この結末をとても期待したのだが、
あとはナウシカ世界に入り込んだ自己投影キャラが、
チヤホヤされる話にすぎなかった。
メアリースーの、
「オリキャラが世界に入り込んでチヤホヤされる。
たいてい最強キャラ」
という構造と、
まるで同じなのだ。
ああ、だからアシタカには成長がないし、
変化もないし、
過去との決定的訣別がないし、
元に戻れない決断も勇気もないんだな。
私は現状維持のまま愛されて最強でありたい、
メアリースーなんだ。
しかも呪いを受け続けてる厨二病設定。
ああ、あらためてもののけを再考察するんじゃなかった。
詰まらなさの正体、
おぞましきものを見てしまった。
もののけ姫と言われながら、
サンはもののけじゃないし、
もののけの中の姫でもない。
姫設定はナウシカの分霊だからと考えれば納得がいく。
そしてもののけ姫といいながら、
アシタカが主役なんだよな。
これが全くよくわからない。
これは何の物語なんだろう?と、
ずっと疑問だったんだよ。
ナウシカ世界における、
ペジテのアスベルが死んじゃったから、
ナウシカと結ばれる男キャラを描こう、
これを和物に転生させて、
ナウシカの恋をちゃんと描こう、
として、
そこにメアリースーを放り込んでしまった、
というのが、
もののけ姫の顛末ではなかろうか。
そう考えると、
女ばかりが魅力的で、
アシタカがモテモテで、
男たちは全員不細工で、
もののけたちのほうが人間ぽいことの、
無意識的構造がよくわかる。
宮崎駿という作家は、
男主人公を描くのが下手だ。
コナンもパズーも、
内面がまったく見えてこない、
ただのヒーローロボットに見える。
ハウルなんてまったくわからない。
カオナシだけかな、きちんとかけたのは。
主人公としては、
ルパンだけが唯一内面をうまく描けた。
でも完全成長せずに、「レギュラー番組につづく」
というオチでお茶を濁している。
というわけで、
アシタカもその系譜の中に入ってしまった。
宮崎駿は内面のないヒーローロボットでしか、
男主人公を描けない。
アシタカに内面をつくろうとしたら、
それがメアリースー=自分自身の投影になってしまい、
失敗した、
というのが全体像に思える。
ああ、
やっともののけ姫の物語の不完全性に納得がいった。
期待ほどつまらんかったなー、
ラピュタやナウシカを超えたものにはならなかった、
というリアタイ当時のの期待外れの正体が、
やっと見えたわ。
宮崎駿、やっぱ脚本が下手なんじゃない?
あるいは、
ナウシカとカリオストロが奇跡的によくできてただけかもね。
私は呪われた者として生まれた。
だから忌み嫌われ、だが最強の力を秘めている。
嫌われた人々とは和解しない。
同じく忌み嫌われた異形の者たちと、
やっていくことにするよ。
これがアシタカの物語であり、
宮崎駿の物語ではなかろうか。
原作版ナウシカも、
これと同じなんだよな。
そして忌み嫌った人々との和解も共生もなく、
ただ去るだけなんだよな。
異形の者と結婚するわけでもないし。
宮崎駿自身を投影するとこうなりがちで、
それはハッピーエンドに必ずならなくて、
だからメアリースーは、
フィクションの物語に入れてはいかんのだ。
消化不良になるんだよ。
成長しない自分が主人公になるからね。
2023年07月22日
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確かにアシタカって変化ないんですよね。
行動は結構していたと思うけども、結果的にエボシやサンに何とかしてもらってただけな記憶。
最後の頭を返して終わりという落ちも、絵的には綺麗で好きなシーンでしたが、あれをしたことでアシタカの内面の問題が解消したかというとそういう感じでもなかったですし。
ちなみにパズーに関しては一応「父さんが嘘つきじゃなないことを証明する」という内的動機は少なからずあったかなと思いました。
ラピュタが崩壊しちゃったのでそれも叶わずシータの故郷へ行くという落ちで終わったので、その辺が曖昧なまま終わってしまいましたが…
もう作家としての宮崎駿は終わったので、
「宮崎駿は男の主人公を、
従来のような内的動機-行動-変化として描くことは、
下手な作家であった」
と結論づけられるきがします。
コナン、ルパン、パズー、アシタカともに、
大きな変化をしてない気がします。
ルパンがぎりぎり、クラリスを連れて行こうとした、
という変化をしてますが、
レギュラーにつなぐためにやめたのでしょう。
単独映画ならば連れてって終わる気がしますがね。
(ローマの休日のオチに揃えるかもしれないけど)
もちろん、「変化がテーマになる」
わけでもなく、
結局宮崎駿は映画作家ではなく、
不世出のすぐれたアニメーターであった、
という結論になるかと思います。
歳とると格好いいだけで責務が曖昧な男じゃ共感できなるんですかね?
見た目をはずして、
「何をしたのか」だけで考えるとわかります。
前半と後半がつながってないですね。