2023年11月07日

人が沢山集まると興奮する本能

というのがあると思う。

昔まだ正月に親戚が集まる習慣があったころ、
うちのばあさんはなぜか興奮して接待してた。
「沢山人が集まってたのしいねえ」
と言ってたのを思い出す。


その「たくさん」は、100人とか一万人とかじゃなくて、
部族の単位だ。
5, 6人から多くても10人くらい。
一度に飯食って顔が見えて話せる程度の人数。

狩や農作業をするときに、
顔が見えて役割を理解し、
仕事を割り振れてなんなら代われる程度の人数。

会社の部署の飲み会もそんな感じ。


おそらく人には、
「異なる人々が認識できる程度集まり、
それぞれの違いを認識して興奮する本能」
があるんじゃないかと考えている。

バスケのチーム編成を誰がどこのポジションにしようか考えるの、
ちょっと面白いよね?
野球の9人は多くて認識範囲からはみ出すかもしれないが、
誰をどこに置こうか考えるの楽しいよね。

あるいは、原作の実写化をするとき、
キャストを考えることはひとつの娯楽になる。

つまり人には、
人が集まり、その違いを見分け、認識すると興奮する、
本能があるのではないか説。



で、これは男より女の方が強いのでは?
とちょっと思っている。

大体おばちゃんのほうがこういうの好きだからだ。
アイドルグループの誰と誰がどうとか、
延々話してるし、
メンバーが全員来るかどうかにこだわるし。

親戚の集まりで興奮するばあさんと、
同じ脳の部分が活性化してるように見える。

男の方が弱くて、
でも「誰をどのポジションに割り振るか」
を考えるのは男の方が楽しいみたい。
狩の編成の本能の名残りだろうか。

まあとにかく、
「頭の中で認識できる程度のぎりぎりの人数が、
あつまる」
という興奮が、
人類にはあるのではないか、
と僕は考えている。


オールスターキャスト映画は、
そうしたことを利用していると僕は考える。

あるいは、
イケメンたちを集めた何かのイベントや、
可愛い子だけを集めたものも、同様だ。

「ある条件のもとに集められた、
個性の異なる人々」は、
それが存在するだけで興奮する。


さて、
そろそろ脚本論と結びつけようとしてるわけだけど、
つまり、
そのキャラ設定に興奮してしまうのは、
作者も同様だぞ、
ということを言おうとしている。

その興奮はストーリーの興奮じゃないぞ、
ということを言おうとしている。

ストーリーを書こうとする人間が、
まずはキャラ設定かー、
とやりはじめて、
キャラを並べて興奮して、
楽しいなーと思っていたとしよう。

しかし次にストーリーを作り始めたら、
さっぱりうまくいかず、飽きて投げ出してしまう、
なんてことは初心者のうちにとても良くあることだ。


これは、
ストーリーによって得られる興奮よりも、
先に人が集まる興奮を使ってしまったからで、
人が集まる興奮のほうが、
より簡単に作れるからである。

ストーリーづくりのほうが難易度が高く、
キャラ設定のほうが難易度が低いため、
単に壁にぶち当たっているだけだ。

そして、自分にできることだけをやろうとして、
キャラ設定だけが溜まっていって、
いつまでたってもストーリーができない、
ということは、
初心者あるあるだと思う。


「キャラが勝手に動き出すようになるまで、
キャラを詰めるか」なんて思って、
どんどん設定を追加して、
口癖なんかをつくって、
そのキャラが喋るようになるまでは掴めるようになるはずだ。
(架空の人格=タルパの設定のようなものだ)

だけどどんなに詳細に設定したり、
どんなにたくさんのキャラを作っても、
ストーリーはつくれないと思う。

それは親戚が集まって興奮してるおばちゃんと、
同じ脳の部分しか使っていなくて、
ストーリーをつくる脳の部分を使っていないからだ。


キャラ設定は、つまり静止している。
これとこれはあれとあれが違う、と分別して興奮するとき、
そのキャラ設定は変化しない。
ある静止したものを分別している興奮なのだ。

もちろん設定に時間軸をつくることはできるよ。
「たかしちゃん大きくなったねえー」と、
親戚のおばちゃんが設定の変化を楽しむことはありえる。
「去年よりずっときれいになった」から、
「髪型変えたんだ」「その服いいね」まで、
時間軸の変化を設定に盛り込むことは可能だ。


しかしこれでもまだストーリーではない。

じゃあストーリーとはなにか。
「目的を持った行動」だ。

行動しないのはストーリーではないのだ。


行動はなんでもいい。

車に乗って移動する、
殴る、
飯を食う、
会社を辞める、
つきあうことにする、
死ぬ、
人生の小さなことから大きなことまで、
主体的行動であればなんでもよい。

○○される、の受動態はだめだ。

なぜなら、
「目的や意思を持った行動」がストーリーだからだ。

行動には理由がある。
その理由を明らかにして、
その最終目的が達成するまでの行動を描くのが、
ストーリーである。

「飯を食う」行動の目的はなにか。
もし「腹が減った」であれば、食べ終わって「ごちそうさま」
といった瞬間「完」と出て終わりだ。
そのストーリーはおもしろいか?
たぶん詰まらない。

だが、妨害があったらどうだろう。

忙しい当直医が、飯を食おうとするたびに急患が入り、
いつまで経っても飯が食えないとしたら。
手術しながらおにぎりを食べようとして、
うっかり患者の体内におにぎりを落としてしまったら。

つまり、
目的を達成しようとした一連の中で、
妨害やアクシデントが入り、
「完遂できるのか?」を楽しむことが、
ストーリーである。

ふつうに飯を食い、ごちそうさまでしたでは、
普通すぎて面白くない。
目的や結果や途中が、普通じゃない面白さになってるものが、
面白いストーリーだ。


さて、じゃあこれと「たくさんの人が集まる」と、
関係ないじゃないか。

そう、関係ないのだ。

ストーリーの興奮と、
たくさんの人が集まる興奮は、
別次元の興奮なのだ。

だけどこれはいっしょくたにされがちだ。

なぜなら、
「個性的な人々が集まって、
事件を解決する」のがストーリーのスタンダードだからだ。


つまり、
商業的ストーリーは、
ストーリーの興奮と、
たくさんの人が集まる興奮の、
独立した別々の事象を両方取り込んでいる。


だけどストーリーの興奮はネタバレになるため、
誰々が出ている、誰々が総集結!というような、
キャスト一覧を見て興奮させる。
それがブロッコリーポスターだ。

だけどそれだけだと、
親戚が集まって興奮してるばあさんと同じなんだよね。


それが集まって「家を建てる(目的と行動がある)」
があって、はじめてストーリーになる。

目的と行動がないものはストーリーではない。

だからブロッコリーポスターは、
せめて目的と行動を示すべきなのだ。




商業映画は、
ストーリーの興奮と、
人が沢山集まる興奮の、
二種類を提供する。
そしてそれは分離できないくらいうまく混ざっている。

だから、後者だけで興奮してる人もいるし、
前者だけで興奮してる人もいるし、
両方で興奮してる人もいる。

あなたは何を提供しているか?

自覚したまえ。



ストーリーを書くにはコツがある。
まずはストーリーを書いて、
その次に人を分別する興奮をつくることだ。
つまり難しいことを先にやり、
簡単なことであとでデコレーションするわけ。

ストーリーは骨であり中身で、
キャラはガワだという僕の主張は、
つまり難易度の話をしている。
posted by おおおかとしひこ at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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