というのがあると思う。
昔まだ正月に親戚が集まる習慣があったころ、
うちのばあさんはなぜか興奮して接待してた。
「沢山人が集まってたのしいねえ」
と言ってたのを思い出す。
その「たくさん」は、100人とか一万人とかじゃなくて、
部族の単位だ。
5, 6人から多くても10人くらい。
一度に飯食って顔が見えて話せる程度の人数。
狩や農作業をするときに、
顔が見えて役割を理解し、
仕事を割り振れてなんなら代われる程度の人数。
会社の部署の飲み会もそんな感じ。
おそらく人には、
「異なる人々が認識できる程度集まり、
それぞれの違いを認識して興奮する本能」
があるんじゃないかと考えている。
バスケのチーム編成を誰がどこのポジションにしようか考えるの、
ちょっと面白いよね?
野球の9人は多くて認識範囲からはみ出すかもしれないが、
誰をどこに置こうか考えるの楽しいよね。
あるいは、原作の実写化をするとき、
キャストを考えることはひとつの娯楽になる。
つまり人には、
人が集まり、その違いを見分け、認識すると興奮する、
本能があるのではないか説。
で、これは男より女の方が強いのでは?
とちょっと思っている。
大体おばちゃんのほうがこういうの好きだからだ。
アイドルグループの誰と誰がどうとか、
延々話してるし、
メンバーが全員来るかどうかにこだわるし。
親戚の集まりで興奮するばあさんと、
同じ脳の部分が活性化してるように見える。
男の方が弱くて、
でも「誰をどのポジションに割り振るか」
を考えるのは男の方が楽しいみたい。
狩の編成の本能の名残りだろうか。
まあとにかく、
「頭の中で認識できる程度のぎりぎりの人数が、
あつまる」
という興奮が、
人類にはあるのではないか、
と僕は考えている。
オールスターキャスト映画は、
そうしたことを利用していると僕は考える。
あるいは、
イケメンたちを集めた何かのイベントや、
可愛い子だけを集めたものも、同様だ。
「ある条件のもとに集められた、
個性の異なる人々」は、
それが存在するだけで興奮する。
さて、
そろそろ脚本論と結びつけようとしてるわけだけど、
つまり、
そのキャラ設定に興奮してしまうのは、
作者も同様だぞ、
ということを言おうとしている。
その興奮はストーリーの興奮じゃないぞ、
ということを言おうとしている。
ストーリーを書こうとする人間が、
まずはキャラ設定かー、
とやりはじめて、
キャラを並べて興奮して、
楽しいなーと思っていたとしよう。
しかし次にストーリーを作り始めたら、
さっぱりうまくいかず、飽きて投げ出してしまう、
なんてことは初心者のうちにとても良くあることだ。
これは、
ストーリーによって得られる興奮よりも、
先に人が集まる興奮を使ってしまったからで、
人が集まる興奮のほうが、
より簡単に作れるからである。
ストーリーづくりのほうが難易度が高く、
キャラ設定のほうが難易度が低いため、
単に壁にぶち当たっているだけだ。
そして、自分にできることだけをやろうとして、
キャラ設定だけが溜まっていって、
いつまでたってもストーリーができない、
ということは、
初心者あるあるだと思う。
「キャラが勝手に動き出すようになるまで、
キャラを詰めるか」なんて思って、
どんどん設定を追加して、
口癖なんかをつくって、
そのキャラが喋るようになるまでは掴めるようになるはずだ。
(架空の人格=タルパの設定のようなものだ)
だけどどんなに詳細に設定したり、
どんなにたくさんのキャラを作っても、
ストーリーはつくれないと思う。
それは親戚が集まって興奮してるおばちゃんと、
同じ脳の部分しか使っていなくて、
ストーリーをつくる脳の部分を使っていないからだ。
キャラ設定は、つまり静止している。
これとこれはあれとあれが違う、と分別して興奮するとき、
そのキャラ設定は変化しない。
ある静止したものを分別している興奮なのだ。
もちろん設定に時間軸をつくることはできるよ。
「たかしちゃん大きくなったねえー」と、
親戚のおばちゃんが設定の変化を楽しむことはありえる。
「去年よりずっときれいになった」から、
「髪型変えたんだ」「その服いいね」まで、
時間軸の変化を設定に盛り込むことは可能だ。
しかしこれでもまだストーリーではない。
じゃあストーリーとはなにか。
「目的を持った行動」だ。
行動しないのはストーリーではないのだ。
行動はなんでもいい。
車に乗って移動する、
殴る、
飯を食う、
会社を辞める、
つきあうことにする、
死ぬ、
人生の小さなことから大きなことまで、
主体的行動であればなんでもよい。
○○される、の受動態はだめだ。
なぜなら、
「目的や意思を持った行動」がストーリーだからだ。
行動には理由がある。
その理由を明らかにして、
その最終目的が達成するまでの行動を描くのが、
ストーリーである。
「飯を食う」行動の目的はなにか。
もし「腹が減った」であれば、食べ終わって「ごちそうさま」
といった瞬間「完」と出て終わりだ。
そのストーリーはおもしろいか?
たぶん詰まらない。
だが、妨害があったらどうだろう。
忙しい当直医が、飯を食おうとするたびに急患が入り、
いつまで経っても飯が食えないとしたら。
手術しながらおにぎりを食べようとして、
うっかり患者の体内におにぎりを落としてしまったら。
つまり、
目的を達成しようとした一連の中で、
妨害やアクシデントが入り、
「完遂できるのか?」を楽しむことが、
ストーリーである。
ふつうに飯を食い、ごちそうさまでしたでは、
普通すぎて面白くない。
目的や結果や途中が、普通じゃない面白さになってるものが、
面白いストーリーだ。
さて、じゃあこれと「たくさんの人が集まる」と、
関係ないじゃないか。
そう、関係ないのだ。
ストーリーの興奮と、
たくさんの人が集まる興奮は、
別次元の興奮なのだ。
だけどこれはいっしょくたにされがちだ。
なぜなら、
「個性的な人々が集まって、
事件を解決する」のがストーリーのスタンダードだからだ。
つまり、
商業的ストーリーは、
ストーリーの興奮と、
たくさんの人が集まる興奮の、
独立した別々の事象を両方取り込んでいる。
だけどストーリーの興奮はネタバレになるため、
誰々が出ている、誰々が総集結!というような、
キャスト一覧を見て興奮させる。
それがブロッコリーポスターだ。
だけどそれだけだと、
親戚が集まって興奮してるばあさんと同じなんだよね。
それが集まって「家を建てる(目的と行動がある)」
があって、はじめてストーリーになる。
目的と行動がないものはストーリーではない。
だからブロッコリーポスターは、
せめて目的と行動を示すべきなのだ。
商業映画は、
ストーリーの興奮と、
人が沢山集まる興奮の、
二種類を提供する。
そしてそれは分離できないくらいうまく混ざっている。
だから、後者だけで興奮してる人もいるし、
前者だけで興奮してる人もいるし、
両方で興奮してる人もいる。
あなたは何を提供しているか?
自覚したまえ。
ストーリーを書くにはコツがある。
まずはストーリーを書いて、
その次に人を分別する興奮をつくることだ。
つまり難しいことを先にやり、
簡単なことであとでデコレーションするわけ。
ストーリーは骨であり中身で、
キャラはガワだという僕の主張は、
つまり難易度の話をしている。
2023年11月07日
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