2023年12月27日

ポイントを絞ろう

伊藤園俳句の添削をしよう。

 祖母という真水の匂い鶴来る

?って一瞬なるよね。
佳作特別賞に選ばれている。
まあ佳作レベルだけど、佳作にするには何かあるな、
だから佳作特別賞なのだろう。

何が良くないか、何がいいかを吟味し、
さらに良くしてみよう。


何が良くないか?
絵が三つもあることだ。

祖母、真水、鶴。

三題噺かよって感じ。
祖母が真水を飲むくらいだったら、
祖母と鶴の話になるだろうが、
「祖母という真水の匂い」と、
難しく絡めているので、
これは祖母と真水と鶴の、三要素となる。

三要素は多い。
1、2、たくさんであるべき。
祖母と真水と鶴の、どの要素も「たくさん」
のその他には入らない。

だから、
この俳句はポイントを絞れていない。
だからだめだ。
とっ散らかっている。


さて、どこから崩そうか。

逆にいいところを見よう。
「祖母という真水の匂い」は、
なんか文学的でいい気がする。

祖母は洗剤などを使わず、真水で洗い物をするのだろうか。
祖母は行水でもするのだろうか。
その辺はよく分からないが、
祖母と真水の匂いを絡めたところは、
この句の心臓部であるように思える。

なので、
「鶴来る」を崩そう。
この場合の鶴は、
とくに祖母や真水と交差してないと感じられる。
「冬来たる」の季語をカッコよく言っただけだ。
(モノの本には晩秋の季語ともある。
真水を強調するなら冬の方がいいと思う)

そのカッコつけ中二病をひらいて、

 祖母という真水の匂い冬来たる

とすると、
厳しい冬の初めに、
お湯も使わずに真水で洗い物をする祖母の、
質素で素朴な風景がたちあがる。

「冬来たる」が平凡なので、
もう少し考えよう。

仮に冬の厳しい寒さと、
お湯や洗剤を使わない、
ひび割れた手の祖母という質素さ、清廉さを、
描くのが主軸としよう。
「という真水の匂い」なんてもって回った言い方は、
「祖母から真水の匂いがした」
というよりも文学的に傾倒している。
なのでここを心臓部とすれば、

 祖母という真水の匂い冬染まる

くらいやってもいいんじゃないかな。

これで、真っ白な風景、ないし冬枯れの何もない景色に、
真水の匂いをさせた祖母という一人の人物が、
立ちいでるような気がする。

あるいは、寒さと対比せずに、

 祖母という真水の匂い小春日に

なんて冬の中の暖かい日の緩んだ真水を描いてもよいだろう。

いずれにせよ、
「祖母という真水の匂い」という、
難しい言い回しをしたのだから、
下の句5字は、簡単なものでスッと入る方がいいと思う。



削ること。

それは、いい部分を残すことである。

ステーキ肉が腐っているとしよう。
腐ってないいい部分だけ残して、
他を捨てるのだ。
捨てた分だけ、付け合わせを足して、
残った肉を引き立てるのだ。

どこが主軸か、心臓部か、肉の美味しい部分かを、
見極めて、ギリギリでナイフを入れられるか、
が、
「ポイントを絞る」ということなのだ。


「○○がしたかった」とか、
「○○を表現しようと思った」なんて、
実はどうでもよい。
出来上がったものが、
どれだけ想像力を膨らませられるかが、
「出来」というものである。

この作者の頭の中には、
鶴があったのかもしれない。
丹頂鶴が渡り鳥としてやって来た風景と、
祖母を絡めたかったのかも知れない。
だけど、
出来上がったものは、真水の匂いのする、
清廉な祖母なのだから、
そこにフォーカスを当てるべきなのだ。


他人のこれならわかるよね。
自分のも同様にされたい。
それには、
冷静さと情熱の、両方が必要である。


(追記)
翌日、下の句が「冬の朝」くらい簡単でもよいのでは?
と思いついた。

 祖母という真水の匂い冬の朝

これくらいだとシンプルな情景まで削ぎ落とされるね。
そのぶん、想像がふくらむ。
想像の余地が生まれる。
実は祖母は死んでて、
その仏前に神棚みたいにコップ一杯の水をあげて、
その匂いが祖母のよう、
くらいまで想像が膨らむ余地がでてきた。

祖母は昔から真水の匂いがして、
いまでも真水の匂いがする。

みたいな小説の出だしすら出てくるわ。
posted by おおおかとしひこ at 20:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今日たまたまこの俳句を見て思ったのですが、真水の匂い=無い→祖母は亡くなった、と解釈できると思います。祖母が亡くなってからの時の経過に、鶴の飛来で改めて気づかされたのでしょう。
Posted by 田中太郎 at 2024年07月01日 00:32
>田中太郎さん

はい、もちろん祖母はすでにいない前提の話をしています。
でも、祖母、真水、匂い、鶴は多すぎるという話です。

祖母の死から時が流れたことを表現したければ、
真水、匂いを切って、
祖母と鶴だけで表現しても構わないはずです。

祖母が世を去ると同時に鶴も去ったが、
また鶴の来る季節となった、
一年は早いものだ、
という風な意味にすることは可能でしょう。

ただそれがいい俳句か、となると平凡です。

作者もそれをわかって、
「真水の匂い」なんて難しい言葉に挑戦したのでしょう。
オリジナリティは「真水の匂い」か「鶴来る」かを考えて、
前者でなんとかならないか、と考えていたわけです。

ただまあ、やっぱり全体が「祖母を失ったこと」がテーマなので、
それ自体が平凡ともいえます。
家族を失った悲しみというのは、
表現テーマとしては新しさがないわけです。
一度に家族全員を失うとか、特殊なことで一般を描くか、
一般のものを使って特殊を描かないと、
芸術として一本立ちしたとはいえないと思います。

要素が多いことで一本立ちしようとした、
というのなら、佳作落ちレベルでしょう。
Posted by おおおかとしひこ at 2024年07月01日 01:34
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