完成した原稿を直すリライトは、
いつ終わりだろうか。
完成を見極めるのは、何度やっても難しい。
書き終えて、いろいろやりたかったことを思い出したりする。
あれを入れ忘れた、これを入れないと、
などなどだ。
ふとした時にワンシーン思いついて、
足したくなることもあるだろう。
どこに入れればいいのか分らないが、
まあどこか途中の場面で、
それによってより深くなる場面とかを、
思いついたりするものだ。
そんなものを挿入していくと、
みずみずしさが失われる、
ということを覚えておくとよい。
つまり、
「初見の感覚」が失われがち、ということだ。
最初のほうの原稿に存在した、
「それを人生で初めて体験する感じ」が、
なくなっていく、ということだ。
そりゃそうだよね。
「あ、あれを入れ忘れた」という思いは、
一回体験した人の都合だからね。
たしかに客観的にそれを入れたほうが良くなる、
というのは分らなくもないが、
それは「それを最初に一回だけ体験する人」の立場から、
正しいとは言えまい。
人間は完璧に人生を生きられるわけではない。
それがリアルで生々しいということである。
逆にいうと、やることが100%できない。
つねに足りないのがリアルだ。
それを、100%に仕上げてしまおうというのが、
リライトで起こりがち、ということだ。
それによって良くなることもあるだろう。
ただし、
みずみずしさが失われるならば、
そろそろリライトの段階もおしまいだぞ、
ということを言おうとしている。
それは完全さには寄与するかもしれないが、
面白さ、体験のドキドキワクワクに、
寄与していないかもしれない、
なんなら、みずみずしさを失う方向に誘導しているかもしれないぞ、
ということを自覚しよう、
ということだ。
何がよいリライトかは難しい。
しかし、
生々しさ、リアリティ、新鮮さが失われることは、
映画的体験の質を下げるものである。
それを覆してまで、完璧を目指したり、
完全であることに拘るのは、
ご都合主義を100%にする、
ということではないか。
完成、というピリオドを打つことは、
経験上も難しい。
これ以上手を入れると悪くなるな、
と感じて、アンドゥが増える時が、
その頃合いと思っている。
その判断基準として、
「完全になりたいと自分が思っている」
という自覚は必要だな。
書きなおしたら、
みずみずしさが失われてしまった。
ならば、アンドゥしなさい。
そのリライトは間違っている。
「これ、どうなるかわかんねえぞ」
のドキドキハラハラがおもしろさである。
「どうなるかわかってる」立場からの書き直しは、
それを削ぐ。
2024年11月08日
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