2024年11月08日

みずみずしさを損なうリライトは潮時

完成した原稿を直すリライトは、
いつ終わりだろうか。
完成を見極めるのは、何度やっても難しい。


書き終えて、いろいろやりたかったことを思い出したりする。
あれを入れ忘れた、これを入れないと、
などなどだ。

ふとした時にワンシーン思いついて、
足したくなることもあるだろう。
どこに入れればいいのか分らないが、
まあどこか途中の場面で、
それによってより深くなる場面とかを、
思いついたりするものだ。

そんなものを挿入していくと、
みずみずしさが失われる、
ということを覚えておくとよい。
つまり、
「初見の感覚」が失われがち、ということだ。


最初のほうの原稿に存在した、
「それを人生で初めて体験する感じ」が、
なくなっていく、ということだ。

そりゃそうだよね。
「あ、あれを入れ忘れた」という思いは、
一回体験した人の都合だからね。
たしかに客観的にそれを入れたほうが良くなる、
というのは分らなくもないが、
それは「それを最初に一回だけ体験する人」の立場から、
正しいとは言えまい。


人間は完璧に人生を生きられるわけではない。
それがリアルで生々しいということである。
逆にいうと、やることが100%できない。
つねに足りないのがリアルだ。

それを、100%に仕上げてしまおうというのが、
リライトで起こりがち、ということだ。

それによって良くなることもあるだろう。
ただし、
みずみずしさが失われるならば、
そろそろリライトの段階もおしまいだぞ、
ということを言おうとしている。

それは完全さには寄与するかもしれないが、
面白さ、体験のドキドキワクワクに、
寄与していないかもしれない、
なんなら、みずみずしさを失う方向に誘導しているかもしれないぞ、
ということを自覚しよう、
ということだ。



何がよいリライトかは難しい。
しかし、
生々しさ、リアリティ、新鮮さが失われることは、
映画的体験の質を下げるものである。

それを覆してまで、完璧を目指したり、
完全であることに拘るのは、
ご都合主義を100%にする、
ということではないか。


完成、というピリオドを打つことは、
経験上も難しい。
これ以上手を入れると悪くなるな、
と感じて、アンドゥが増える時が、
その頃合いと思っている。
その判断基準として、
「完全になりたいと自分が思っている」
という自覚は必要だな。

書きなおしたら、
みずみずしさが失われてしまった。
ならば、アンドゥしなさい。
そのリライトは間違っている。

「これ、どうなるかわかんねえぞ」
のドキドキハラハラがおもしろさである。
「どうなるかわかってる」立場からの書き直しは、
それを削ぐ。
posted by おおおかとしひこ at 07:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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