違うのは誰でも知っているのに、
いざリライトを始めると、
この混同がよくあるんだよね。
油絵をやったことがある人は分るけど、
無限に直すことが出来るのね。
無限に塗りを重ねていくことが出来るので、
線は何回でも直せるし、
面の塗り直しは無限に出来る。
薄めたものを重ねて色を乗せるのも無限に出来るし、
なんなら失敗を塗りつぶして、一からかくことも可能だ。
これがデジタルになったことで、
さらに無限は加速した。
レイヤーも無限にあるし、
アンドゥやヒストリーもあるし、
無限に塗り直しは可能である。
デジタルではとくに「厚塗り」といったりするけど、
要はこの油絵の前提、無限直しをデジタルで再現したものだ。
(対義語は水彩かな。すっと一回塗りをしておしまいだ)
これに慣れると、
「気に食わないところ、間違っているところを、
無限に直す」が習性になる。
僕は、これは脚本には害だと思っている。
音楽を直すことを考えよう。
パンチインというやり方がよく使われる。
あるところまでを前のを使って、
それから新録音で上書きすることだ。
前のとグルーブをつなげるため、
ニューテイクの演奏自体は少し前からやって、
パンチインしたところから使って、
最後まで演奏する、
というのがよく使われる。
これは「ノリを合わせつつ、
目的のアレンジに近づける」
という手法である。
これをしないとノリが途切れて、
グルーブが繋がらなくなる。
時間軸のあるものの直しは、
こうあるべきだと僕は思う。
前の流れがあり、あとの流れがあるからだ。
だから前から読んで流れを把握したうえで、
パンチイン方式で直すのはよいと思う。
だけど、これを、
油絵のような直し方をする人がいて、
それは間違いだぜ、ということを言おうとしている。
部分だけ見て、間違いだ、直したいと思って、
そこだけを直すやり方だ。
油絵の場合はいいよ。逃げないから。
ちょっと離れて見て、それが妥当かどうかを、
確認すればいい。
永遠に動かないものは、そうやって直せる。
だけど音や物語は「うごく」んだ。
どういうことかというと、
「遠くから見ることができない」ということだ。
最初からずっと流れがあって、
それが直したところを通過して、
最後にオチるまでが一連だ。
その一連の流れがよくなっているか、
という観点で直しはされるべきであり、
「そこだけシミ取りしたもの」という直しは、
間違いの直しなのだ。
リライトが下手な人は、
油絵のような直しをしているんじゃないか?
音楽のような直しをしようじゃないか。
どういうことかというと、
最初から読んで、
該当箇所までの流れを把握してから、
おもむろに該当箇所を直せ、
ということだ。
そこまでの流れは分っている、と書き手はいうだろう。
でも、それを分っていても、
流れに敏感になろうぜ、
ということを言おうとしている。
楽器の調子ですらなかなか合わないのに、
今から発する言葉が、
楽器より調子よくグルーブが合う保証はひとつもないのだ。
もちろん、めんどくさいよ。いちいち最初から読むの。
長いものほどそうなるだろう。
だが、映画は、「途切れずに見るもの」としては、
一番長いジャンルのものでもある、
ということを忘れてはならない。
休憩なしで、最初から最後まで一気に見るものなんだよね。
それを忘れて、
油絵のように直したって、
無限直しをするだけになるぜ。
そもそも流れ上それはいらない直しだってある。
静止画的に見ていると直したくなるが、
実はそれは流れを阻害するものになる、
うまく省略されてるのだ、
と判断することはなかなか出来ないからね。
つねに流れているもの。
そのように脚本をとらえて直しが出来るかな?
言葉遣いが間違いとか、
知識に誤りがあるとかは、
静止画的にも直せる。
しかしそのせいで流れが変わってしまうとか、
ノリが悪くなるとかは、
流れを分っていないと判断できないだろう。
だとしたら、その直しの箇所自体を全部切ったほうが、
流れがよくなる、という判断すらあるわけで。
我々が書いているのは油絵ではない。
音楽に近いものだ。
ノリが悪ければ悪いものになる。
ノリの範囲ならば、直しはいらないものもある。
音楽の人たちを観察しよう。
そういう直しを入れていこう。
油絵のような、赤を入れる作業は、
リライトとして間違いのやり方だ。
(そもそもAを直したからよくなるかどうかは、
静止画で見ている状態だと分らないんだよ。
流れでAがどういう影響を与えているかが大事だというのに)
第一稿は生き生きしてよかったのに、
稿を重ねるごとに死んだようになっていくのは、
これが原因だ。
つねにビビッドでいるためには、流れで生きなければならない。
2025年04月15日
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